茹で蛙の盆踊り

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アラフォーサラリーマンが、まぬけな子育て話などをお届けします

本にカバーをおつけしますか?

本を買う時にまず訊かれること、それは「本にカバーをおつけしますか?」だ。最初この言葉を聞いた時はあまりピンと来なかった。別にそんなに激しい使い方しないからカバーなんてわざわざつけなくてもいいのにな、くらいにしか思っていなかった。これは、僕の住んでいた田舎の事情によるところが大きいと思う。電車とかの人の多いところで本を読むことがなかったのだ。そもそも人と接触するような機会がない(笑)。そんなんだから、「カバーのある本にカバーをかける」という行為が意味不明というか、ちょっと滑稽ですらあったわけですよ。本の製造時に最初っからタイトルの見えないカバーつけておけばいいんじゃないの?くらいに思っていたなあ (それだといよいよ本が売れなくなってしまうか...)

本のカバーの意味がわかったのは、電車に乗るようになってからだ。電車で本を読む段になってようやっと「あー、なるほど!周りの人に本のタイトルがバレちゃうからカバーをつけるのか!」と遅まきながらカバーの意味を理解したわけです。確かに「秒速で億を稼ぐ!!」みたいなタイトルの本を見ていたら恥ずかしいもんな(笑)。電車の中で化粧をするのも恥ずかしいけど、本ってやつはその人の頭の中そのものだから、確かにそれをみんなに開示するのはある意味裸になるよりも恥ずかしいかもしれん。自分の内部を曝け出すことになるんだから。そんなこんなで僕も紙の本を読む時はだいたいカバーをつけるようになりました。

最近また英単語の勉強を再開していて、TOEIC用のキクタンをやるように言われているので朝の通勤時なんかにキクタンの本を開いてお勉強をしている。一応、スマホプリでもできるけど、なぜかアプリでやると退屈になって眠たくなってしまうし、「書き込み」ができないので、過去に何回その単語で間違えたとか、どういう覚え方をしたらいいかといったことがメモできない。なので、アプリは併用しながらも紙媒体の単語帳を結構重宝している。

で、問題はこの本に本屋でつけてもらうようなカバーがないことだ。別の本につけていたカバーを移植してみたけど、なぜか僕がカバーをつけるとカバーが本からスルリスルリを抜け落ちてしまう。きっとあのカバーかけには熟練の技が必要なんでしょう。僕のような素人には無理なのです。

じゃあ、本の本体についていた元々のカバーを裏返せばいいんじゃないって思ったんですけど、これができない。過去の自分が、カバーが取れないようにご丁寧にきっちりとセロハンテープでカバーを本体に固定している (笑)。過去の自分の思惑通りカバーがしっかりととれないようになっています。さてはて、どうしたものか。どうやってキクタンの表紙を隠したものか、色々と考えた結果…

「面倒くせえからそのまま使えばいいんじゃねえか?」

っていう考えにたどり着きました。そう、僕はものすごく面倒くさがり屋なので、こんな本のカバーでいろいろ考えていては、学習意欲そのものが低下してしまうかもしれない。ならば、もういっそそのまんまつかちゃえばいいじゃないか。第一、一体全体、通勤電車に乗るどこの誰が僕の勉強内容に興味を持つというのだろうか?そんなストーカーこの世の中にいるか?いたらちょっと会ってみたいわ (怖いけど)。

「他人の目なんて気にしない」って言っても、さすがに一般的な書籍のタイトルはちょっと隠したい。まだ僕もそれほどメンタルが強くないので、あまり自分の思考を表にさらけ出したくはない。でも、参考書くらいならいいでしょうよ。キクタンの本くらいで自分の思考なんてまったくわからんしね。

でも、そうはいってもそこは超繊細さん。またどうしようもないことが頭をよぎります。現在、キクタンの本を3冊使用している。1つはTOEIC600点むけのキクタン600、1つは800点向けのキクタン800、最後は満点向けのキクタン990。「キクタン990」を電車の中で使っていたら、「あの人TOEIC満点狙っている意識高い系のやつだ」って思われないだろうか。でも、逆に「キクタン600」と使っていたら、「おいおい、あのおっさんTOEIC600点の勉強って大丈夫かよ」って思われないだろうか。となると、控え目な日本人としては「キクタン800」を使用すべきなのか…??? 本当にくだらない考えだわ(笑)。自分が「すべき」勉強もしくは。自分が「やりたい」勉強をやるべきなのに、なんでそこでありもしない他人の目をきにするよ、自分!!

「他人の視線をきにしないで電車の中でキクタンをやる」っていうのは、僕にとってはちょっとした修行なんですが、やっていきましょう。ほんと、自分以外自分のことなんて気にしていないってば。「他人が自分のことをどうこう思っている」って思っている自分しか精神上存在しないわけで、どこまでいっても自分との闘いなわけです。

そもそも、別に悪いことしているわけじゃないから堂々としていればいいじゃないか。周りのサラリーマンをみわたしてみると、案外英語の勉強をしている人って少ない。いや、少ないというが見た感じいない!ということは、自分はこの人たちに勝っている!一体何にどう勝っているのかはわかならいけど、雰囲気的に勝っているっていうことで、優越感に浸りながら、無駄にわいてくる羞恥心を相殺させてしまえばいいかな。

繊細さんっていうのは本当に面倒な性格だわ。なんて英単語の勉強一つでこんなに無駄な思考がわいてくるかね、自分よ。大人になれば多少ましになると思っていた羞恥心はまったく改善されませんな。日々自分とのたたかいです。