茹で蛙の盆踊り

茹で蛙の盆踊り

アラフォーサラリーマンが、まぬけな子育て話などをお届けします

どうせ死ぬのになぜ生きるのか?

中二病が止まらない

タイトルに「どうせ死ぬのになぜ生きるのか?」なんて書くとすごく中二病っぽい感じがするなぁ(笑)。でも、いくつになっても中二病は治らんのだからしゃーない。そもそも、今の日本に中二病じゃない人なんているかしらね?たぶん、みんな程度の違いこそあれ中二病の罹患者だと思う。一億総中二病なので、私のことも笑うことなかれと言いたいね。みんな仲間でしょ?違うかしら… 

この「どうせ死ぬのに…」って問いかけは中学生になったら誰でも一度は思うことですが、私の場合は、この "沼" にハマってしまって全く抜け出せなくなってしまった。かれこれ20年以上も "どうせ死ぬのに沼" にはまり続けてしまった。この沼にハマると全てのやる気を吸い取られてしまうので、本当にヤバい。人生の全てから意味を剥ぎ取られて、ただ生存するだけのゾンビのような存在になってしまう。「どうせ死ぬ」を枕詞にすると、すべてのものから意味がなくなってしまう。これはなかなかに耐え難い。何をしても意味を感じられなくなってしまう。何にも頑張れなくなってしまう。だってもう死んでしまうんだから。ってかなり深刻に悩んでおりました。「もうすぐ死ぬ」っていうのは、「あと50年とか60年もしたら死んでしまう」っていう意味です。すぐに死んでしまうのに、一体自分はなんのために生きているんだろうかと若い時期に思うのは仕方がないのですが、これがクリティカルに心に突き刺さると人生ダメになります。

実存的な悩みなんて、そう簡単に答えは出ないので、棚上げにするのが一番いい方法なのかもわかりません。死ぬその瞬間まで棚上げできたらきっと勝ち組だな。手塚治虫は、入院しても、死ぬ直前まで仕事に執着していたから、彼はひょっとしたら自分が死ぬという恐怖をずっと回避し続けることができたかもしれませんね。まぁ、そんな人は稀だろうけど。

中学の頃からこの実存的な問題にみんなどうやって向き合っているのかと思っておりましたが、私の狭い人間関係の中では実存的な問いで人生を絡め取られてしまっている人は皆無でした。これはなんか自分の想像と違っていました。いろんな人に訊いてみましたが、大抵「なにバカなこと訊いてるの?頭大丈夫?」みたいな反応しかなかったですね。あとは言葉には出さないけど「あー、まだ中二病的な考えから抜け出せないのね、かわいそう」みたいな反応とか。自分の弁護をするわけじゃないですけど、けどね、「どうして生きる」とか「何のために生きる」って問いを真摯に問い続けている人ってほとんどいないです。そもそもこんな問いを考えたことがないか、少し考えたけど面倒くさくなってやめたパターンがほとんど。とことん問い詰めてもいないのに、その問いかけを続けてしまう人を何故かバカにする謎の構図がある(笑)。あと、よく聞くのが「生きるのなんて何の意味もないですよー」なんていう発言。この言葉、よく平気で言うよねぇ。本当にこの言葉を受け取ったら絶望しかないのに。単純になにも考えていないか、本当にそう思っていて、それでいてそのことになにも感じない人なんでしょう。何故「意味がない」と言い切れるのか?意味があるかもわからんのに。まぁ、何にしても非常に難しい問題です。

これは釈迦の話だったかな?上記みたいなことを問われたときに、その辺に咲いてある花を指さして「この花に "意味" はあるのか?」と訊いたんだとか。たしかに、チューリップに何の意味があるのか、合理的な説明はつかない。これを押し広げていくと、神羅万象全てに意味があるとは言えない。かといって、意味がないとも言い切れない。少なくとも、人生において絶対的な意味は用意されていないってことでいいかな。でも、これがなかなかに難しくて、この事実をすんなり受け入れられる人と、その曖昧さが嫌で受け入れられない人がいる。私は後者の方でした。

現実逃避

人生の早い段階から、生きることの意味が剥ぎ取られてしまうと、あとは絶望感しか残りません。そして、激しい虚無感に襲われてしまいます。そんな人間がどういう行動をとるのか?自分の場合は、酒に溺れました。わかりやすいパターンですね。現実を直視したくないから、ただひたすら酒を浴びるように飲んで意識を飛ばしていました。しらふでいるのが辛かったんでしょう。夕方、家に帰るなり酒を飲みだし、吐くまで飲んで、意識がなくなったら、その日は終了。二日酔いでダルい体を引きずりながら、次の日が始まる。休みの日は、朝から酒を飲み始める。当時医者に診てもらったら、アルコール依存症と診断されていたに違いないと思います。たかが中二病、されど中二病。中二持病も重症化すると笑えないレベルになってしまいます。

中二病に酔っていたというのもありましょうが、私の場合は本当に酔っていました(笑)。常に二日酔いのような状態なので、まともに頭も働くわけもなく、そのせいでさらに抑鬱が悪化するという負のスパイラルに陥っていましたが、不思議なものでこういう最中にいるときはなかなか自分がどういう状況にいるのか客観視できない。さっさと酒をやめて、筋トレでも行けばいいのに。

絶望、虚無、抑鬱で人生が詰んでしまうと、感情がなくなってしまうようです。全く心が動かかなくなってしまい、それはもう生きる屍状態です。ただ生存しているだけ。「生きている」のではなくて「死んでいない」だけの状態。心が動かなくなると、物事が全く覚えられなくなります。かなり若い時期からものが全く覚えられなくなってしまったので、さすがにこれには恐怖を覚えました。アルコールのせいもあったでしょうが、若年性の痴呆になってしまったのかと思うくらい、何も頭に入らない。数秒前に聞いた人の名前も思い出せないし、昨日自分がどこで何をしたのかもわからない。記憶と情動は深い関りがあろとはいいますが、なるほど確かにそうだと思います。心が動かなくなると、何も記憶できない。記憶がなくなると、自分がなくなるのだなぁと思いました。記憶こそ、自己の同一性を保証しているんですね。

人生を担保するもの

「生きる意味」が人生の前提にあったらどれだけ楽なことか。どれだけ生きやすいかと若い頃から思っていたのですが、これがなかなか難しい。仏教は(大乗仏教はともかく)そんな気の利いたことは用意してくれないし、「じゃあ一神教に頼ってみる?」って考えてみてもこれがまたハードルが高い。聖書でアブラハムとか出されても、「いやいや、俺とは絶対に血繋がってないやろ」って思ってしまう。ユダヤ、キリスト、イスラムの場合は日本人の私には隔絶感が甚だしい。だから「あれはよその神様やから違うな」って思ってしまう。創造主を信じるのはいいけど、彼らが言うような人格神は違うんじゃねぇかなってどうしても思ってしまう。

とはいえ、ユダヤもキリストもイスラムも2000年も耐えてきたんだから(イスラムはもうちょっと若いけど)、人類が共通して持つある一定の真理のようなものを含んでいるんだろうと思うけれども、いかんせん一神教はファンタジー要素が強過ぎて現代の日本人には受け入れ難い。預言者たちが起こした数々の奇跡を信じられるか?うーん、私には無理だわ(笑)。別に一神教がいいとか悪いとかではなくて、科学に毒されてしまっているので、宗教を頭で理解しようとしてしまうんです。だから受け入れることがどうしてもできない。「だがしかし、信じる!」て言う状態になるまでのハードルが高すぎる。逆に、そのハードルを越えられた人は確信的に生きていくことができるんだろうね。もう恐れるものは何もない状態。キリスト教の場合は、多分イエスの復活を信じられるかどうかが信仰のネックになると思うんだけど、ゴルゴタでブッ刺された時に本当に蘇ったんかねぇ…?その後のヘタレ弟子たちの更生っぷりをみると、確かにあのとき奇跡に類するものが起きたんだろつけど、果たしてそれが人類を救済するものだったのかどうか。そして、「なんでその後2000年も何もねぇんだよ!」ってみんな思ってるハズ(笑)。

あと、一神教の弱点は、何故完璧な主が世界を創造したのに、世の中は悪が溢れているのかってことを説明できない点。2000年間学者たちが同じ問いに挑んできたから、ある程度は回答もあるけど、それは一般人にはよくわからない。いくら理論をこねくり回しても、直感的に何か違和感を感じてしまう。この点は、マニ教みたいな宗教の方がわかりやすい。やっぱり一神教現代日本人には受け入れるのが難しい。八百万の神の一つとして受け入れるくらいしか無理だなぁ。

その点、仏教は因果で説明してくれるので現代人でも比較的受け入れやすい。「仏教は科学です」なんて言う人もいるけど、「2500年前のインド人にとっての合理的な考え方」が仏教だから、現代の我々からみたら迷信的なこともたくさんあると思う。当時は当たり前だった輪廻の考え方は、現代人にはなかなか受け入れられない。そうは言っても、一神教よりはかなり合理的な考え方をするので、仏教は現代社会に割とマッチするんだと思う。日本の大乗仏教の場合は、また独自の進化を遂げてしまったからちょっと本来の仏教とは違うけど。

私の場合、仏教的な考え方でだいぶ救われたところがあります。一神教の場合は「信じる」ことがベースにあるので、信じられなかったらにっちもさっちもいかない。その点、仏教は「理解して実践する」ということがベースなので、表面的なことしか理解できない現代人でもとっつきやすい。私のような堕落した現代人には仏教の方がマッチしました。仏教のすごいところは、神秘的なところ、非科学的なところを取り払っても、それでも有効に機能するということなんじゃないかな。釈迦が死んだ後に付与された不思議な伝説は、さすがに今を生きる我々にとってはあまりに荒唐無稽すぎるけど、それを前提をしなくても仏教は色あせることがない。それらはあくまで釈迦を装飾するものであって、その教え自体ではないのだから。「悟りを開いたすごい人」くらいの感覚でもオッケーだと思う。釈迦自身が、「自分を拠りどころとしなさい。法を拠りどころとしなさい」と言ってるくらいだから、仏教において「釈迦を信じる」ということは必須ではない。2500年前に現れた天才が人生から苦悩を抜く素敵なメソッドを開発して、それを我々が仏教って呼んでると私は思ってる。今風に言えば「釈迦メソッド」みたいな感じですかね。元々は割と合理的だったものが、それを実践した熱烈な支持者たちが釈迦の実像を自分たちの好みに仕立てて上げて、今日語られるような神秘的なもんになってしまったのかな。まぁ、とにかく、一神教において信じることは必須条件だけど、仏教においては別に神秘的なものを信じなくても釈迦メソッドの効果は依然として失われないってのがいいな。

仏教の問題点

仏教こそ、宗教的なものが信じられない現代人の救いになると勝手に思い込んでいるんですが、それでもはやり問題が残る。「俺たちは何のために生きるんだよぉ!」って問いに仏教は答えてくれない。答えないっていうか、そういう問い自体に疑問を投げかけてくる。その問いのもう一歩向こう側を指してくるので、煩悩多い衆生には難しい。手っ取り早く答えが欲しいんです。この点、一神教的なものは、明確な答えをポンっと提示してくれる。「はい、これがあなたの生きる意味です」と。"これ" が分かれば、もう人生で迷うことはないので楽ちんですわね。ミッションってやつですかね。これがもしあるならば、その後の人生がものすごく楽になる。しかし、仏教はそんなに優しくないから、そんな簡単に答えは出してくれない。私のように頭の良くない人間には、一神教のようなものが助かる。だって思考停止できますもんね。これだというものを定めたら、あとは信じるだけでいい。なんて楽な生き方だ。問題は、信じ続けられるかどうかだけど。取り敢えず、自分には無理でした。もがきながら生きていくしかないね。

すぐに答えが欲しい

上に書いた通り、すぐに答えが欲しい、手っ取り早く知りたいとどうしても思ってしまう。これは今の若い世代にも当てはまる傾向だけど、私にもめちゃくちゃ当てはまる。人生に対しても簡単な答えが欲しくて、それが見つからず、そして虚無感に襲われて抑鬱になる。何でもかんでも、すぐに、簡単に、わかりやすく答えを求めようとするのはいかんですな。それが通用する分野ならいいけど、実存的な問いかけにこれを当てはめようとするとにっちもさっちもいかない。答えは自分の人生をかけて問い続けなければいけないものなのに、その我慢ができない。書籍でも、YouTubeでも、今は頭のいい人や要領の良い人がすぐに「これが答えです!」って簡単に言い切ってしまう。「答えが出ない」という宙ぶらりんな状況にどうしても我慢がならないのだ。

周りの成功者たちをみると、みんな自分の好きなことをみつけたり、自分の夢を見つけたり、自分の使命を見つけたりして、ブレずに人生を走っているように見えるから、自分も早く自分の人生の答えを見つけなければいけないたら思ってしまう。そして、クソ高いセミナーなんかに金を払ったりして、一時的に気分を高揚させて日常なら戻っていく。これを何度も繰り返し、人生の中で何も見つけていない自分に気がついていよいよ焦ってしまう。自分にはやりたいことも好きなこともないと。ちなみに、私はクソ高いセミナーには出たことないので、テキトーに書いてます。その代わり、自己啓発の本は一通り読み漁りました。その結果、「うん、自分にはクソの役にも立たないな」ということを理解しました。確かに、勉強になることも書いてありますが、自己啓発本に書いてあることって、結局自分には当てはまらない。「俺はお前じゃねぇから」ってケリがついてしまう。万人向けに書かれているものもについても、そもそも平均的な人間は存在しないので、万人のために書かれた書物は誰のためでもない。

 

長々とぐだぐだと書いてしまいましたので、一旦ここで切ります。もしここまでスクロールしてくださった方がいたらありがとうございます。ブログなんかの書きかをの本を読むと、「誰のために書くかを意識しろ」ってよく説かれていますが、それはそうなんだけど、それだけだと楽しくないな。だって、これは別に仕事じゃないんだから。「みんな、俺の話をきいてくれ」って人間の方が多いんじゃないかな。つまり、世間様の需要を満たした文章ではないものが多く発信される。私はそれでいいと思う。他のブログをみていても「みんなのため」に書かれた内容は個性がなくなってしまうから、あまり面白くない。書いている人が、何を体験して、何を感じて、何を思って、何を考えているかがわかる文章は面白いなぁと思う。「役に立つ」内容の文章を読んでも全然感じるところがないんです。そんなもんは、他の誰かがやってくれている。上記の私の文章は心の吐瀉物のようなものなので、見なかったことにしてそっとページを閉じてください(笑)。