茹で蛙の盆踊り

茹で蛙の盆踊り

アラフォーサラリーマンが、まぬけな子育て話などをお届けします

ちゃんと人を嫌う

おそらく、ちゃんと真っ当に生きている方には全く不要な内容でございます。メンタル弱めな方にはもしかしたら何か役立つことがあるかもしれまさん。まぁ、クズ人間の1サンプルとしてみてください。「ちゃんとネガティブな感情と向き合わないといけない」っていうお話です。

ポジティブの弊害

宗教的な本でも、自己啓発本でもしきりに「ネガティブはダメだ」と喧伝されております。これは別に今に始まった話ではないですけど。ポジティブシンキングなんていうものも流行りましたしね。この考え方に間違いはないんだろうなぁとは思います。確かに、ネガティブなことばかり考えていると、世界がそのように変容してしまい、ネガティブなことばかり意識に上がってくるようになりますし、何事もポジティブに受けとらえるようにすれば、自分の認識が(つまり世界が)変わります。なので、ポジティブであるべきだと言われたら、「そうですね」としか言いようがない。ただ問題なのは、それができるかどうかということですね。ネガティブパワーは超絶強力なので、いくらポジティブであろうとしても簡単に跳ね除けてしまいます。僕の場合、思考の99.9%くらいはネガティブな感じです。内省的な性格の人はみんなこんな感じじゃないですかね?意図的にポジティブになろうとしても、頭がご親切にネガティブな思考を垂れ流しにしてくれますからね。頼んでないのにさ!

無理矢理ポジティブな感じにしようとすると、一時的には効果は得られますが、あくまで一時的なものなので長期的にはただ心を疲弊させるだけということになりかねませんね。魚が空を飛ぼうとするようなものなので、無理なものは無理。ポジティブな思考法は、向いている人と、向いていない人がいますね。「ポジティブでなければならない」という意識が強まってしまうと、それがストレスになりうるので気をつけないといかんですなぁ。

認知が歪んでた

僕は、成長のどこかのタイミングで思考法がめちゃくちゃネガティブになってしまい、そのまま抑鬱まっしぐらでした。それはそれは長い抑鬱トンネルで、その一番最悪な時期を脱したきっかけは自分の認知の歪みに気付いた時でした。不思議なもので、抑鬱の最中にいる時は視野狭窄のような状態になってしまい、自分の状況がわからなくなってしまいます。そこから一歩離れた時にようやっと自分のことが少しだけ理解できました。「自分のものの見方が間違っていた」と気付いたこと自体は良かったのですが、その後、「自分の思考法は間違っているから直さなければならない」と思い込んでしまったのが違う沼への第一歩でした。

「思考法を変える」ってのは、もしそれが可能であるならば有効なことであると思いますけど、もし不可能なら、そのこと自体が自分のメンタルを悪化させてしまいます。

僕の場合、すべてのことにネガティブな価値観を貼り付けていたのが抑鬱の原因だったのですが、今度は自分の思考を客観視して、そのあとでネガティブだポジティブだと価値判断をしてしまっておりました。で、「ネガティブだからダメだ」たら思ったりしておりました。抑鬱思考から抜け出したつもりが、また同じような思考法の沼にハマってしまったのでございました。心がネガティブなことを垂れ流したり、葛藤したりするのには、何かしら理由があってそうなっているのだから、これを無理矢理抑え込んだり捻じ曲げたりするのはやらない方がよさそうです。後で問題が悪化しますからね。

ネガティブを捻じ曲げる!

実際に僕がやったことは、ネガティブな思考が浮かんだ時に、それを一旦出してから、それに対する反論をするというものでした。自分対自分のディベートみたいな。これにより、自分の認知がいかに歪んでいるのか自分で自分に理解させようとしていました。あと、自分とは異なる人格を設定して、その人の視点から日記を書いてみるとか。こうすることによって、自分の固定化された考え方を修正したかったんですよ。あー、そうだ、アファメーション的なのも試してみましたねぇ。

こういう努力(といっていいのかしら?)は、全く効果がないわけではないのですが、長期的には何か違和感を強めるだけでした。「効果がないわけではない」ってのがいやらしいですね。間違っちゃないと思うんですよ、たぶん。「もしそれがちゃんとできるならね」っていう前提で。

僕の場合の問題点は、すべて理屈で考えて、自分の悪い点を理性でなんとか解決しようとしていたところだと思います。自分の感情がどう動いているのかはあまり気にしないで、「こうすべきだ」「こうしなければいけない」と浅知恵だけで何とか自分のメンタルを捻じ曲げようとしたのが間違っておりやした。自分の心は、理屈や理性といった浅いところでは簡単に変えられるもんじゃないなって思います。無意識と呼ばれるような心の深いところは、意識の表面を少し繕っただけではなかなかびくともしないですな。

ちゃんとネガティブをしよう

子供の頃に「好き嫌いはダメ」って言われませんでした?今から思うと、こんなにひどい洗脳の仕方はないと思います。自分の息子たちには絶対にこのひどい洗脳はさせちゃいかんと心に誓ったくらいです。この重要さに最近まで気付けませんでした。「好き」とか「嫌い」って、感情の結構根源的なものなので、好き嫌いがなくなってしまうと、生きる気力が削がれてしまいます(自分のことを言ってます)。

しかも困ったとこに(?)、好き嫌いは2つでセットなので、嫌いというネガティブがないと、好きというポジティブな感情も無くなってしまいます。僕なんかは、小さい頃は割と真面目な子だったので、それこそ言われるままに「好き嫌いのない子」に育ちましたけど、そうなると、「嫌い」がない代わりに「好き」がなくなってしまうんですよ。「嫌いがないからこそ」って言った方が正確かもしれませんね。「好きな食べ物は?」とか、「何が食べたい?」って言われたときに、はたと困ってしまいます。自分には好きな食べ物がないから、別に食べたいものなんてないんだと。小さい頃は、苦手な食べ物ってあったはずなんです。でも、「好き嫌いはダメ」と洗脳されていたから、自分の「嫌い」を「嫌い」だと認めないようにしてしまいました。ホントに、誰だよ、こんなこと言い出したやつは!って言いたいですね。嫌いなものは嫌いでいいし、食えなきゃ残せばいいのに。と小さい頃の自分に言いたいなぁ。

食べ物の好き嫌いだけで終わりばいいのですが、これが万事に及ぶと厄介です。僕の場合は、人間の好き嫌いまではっきりしなくなってしまいました。だから、誰かに怒るとか、誰かと喧嘩するってことがないまま大人になってしまいました。社会人になってから、みんなめちゃくちゃすぐにキレるからびっくりしたものです。最後に僕が誰かに対して怒りをぶちまけたのっていつだろう?全く記憶がないですね。そもそも、対面で誰かに怒ったことってないかも。別に、慈悲深いとか寛容なわけじゃなくて、心が動かなくなってしまったから怒りの感情すら出にくくなってしまっただけなんです。こうなるといよいよ末期ですよ。健康なみなさんにはこうはなって欲しくないですね。

ネガティブな感情が出た時に、それを抑え込んで、それが習慣になってしまうと、こんなひどいことになるのですねぇ。嫌う時はちゃんと嫌う、怒る時はちゃんと怒る、ムカつく時はちゃんとムカつく。ネガティブな時はちゃんとネガティブをやる。そうしないと、感情自体が死んでしまいます。

感情的になろう

僕は、すぐ感情的になるのってよくないんじゃないかとずっと思っていたんですけど、そうじゃなかったみたいです。凡夫は自分の感情に流されて生きていると思うのですが、僕みたいに凡夫よりもさらに下のステージの人間はそもそも感情がわかないんですね。こういう末人的な輩が、自己啓発本とかで言われているようなことをやったとて、あんまり意味ないんですね。まずは、煩悩がちゃんと出てくるレベルに、凡夫レベルに上がらないと。

自分の息子には普段から「好きとか楽しいっていう気持ちを一番大切にするんだよ。こういう感情から先になくなっていくからね。ゾンビみたいになっちゃうよ」って言ってます。悲しいかな自分のことだけど。「好き」とか「楽しい」という感情が死んで、さらにネガティブな感情まで否定してしまうと、廃人の出来上がりです。こういう人間は(自分のことですけど)、まずはちゃんとネガティブな感情を出していく訓練をしていかないとダメみたい。ネガティブなところから感情を動かして、心のストレッチをしないとね。

ということで、最近は少しでも「こいつ嫌だな」って思ったら、心の中でありとあらゆる罵詈雑言を吐き出すようにしています。そのおかげで、少しずつ人に対する好感度の濃淡が出てきたような気がします。今までは「俺らはみんなただの糞袋だ」って感じで世を儚んでいましたから、そこから比べると大した進歩です。

ちゃんと人を嫌っていこう

嫌いがなければ好きもない。不幸がなければ幸福もない。お互いがお互いを定義しあっているので、どちらかがなくると両方とも消えてしまうのですね。できればポジティブな方だけ味わいたいもんですが、世の中そううまくはできていませんね。この理屈でいうと、天国ってのはそもそも成立しないのかな。

現代人ってのは、とかく頭で考えて理屈理屈で生きようとしてしまいますけど、実際の我々はほとんどが本能的なところに縛られて生きているわけですから、自分の体や感情ががどう反応しているのかちゃんと受け止めてやらんといかんなぁとつくづく感じております。自分を苦しめているのは、自我ってやつですけど、こいつは人間が理性を獲得したときにひょっこり出てきやがったやつなので、やっぱり人間は知恵がついたせいで不幸になってしまったのか。自我の問題を超えるには、やっぱり理屈とか理性をなんとかせんとあかんのかな。

いかんいかん、またグダグダと考えてしまいました。こういうのがたぶんダメですね。まずは、ちゃんと感情が動くように、人のことをしっかり嫌っていこうと思います。誰かを怒れるようになったら大進歩だなぁ。世の中の怒らない人たち、一緒に他人を心の中で罵るところから始めましょう(笑)!

 

飲み会で一人だけ酒を拒否する

酒をやめてから今月でちょうど3年が経ちました。それまでの人生は酒にまみれたひどく惨めな生活を送っておりました。生活の中心が酒になっていて、完全に堕落した人間でした。

このままでは肉体的にも社会的にも死んでしまうと思い、酒をきっぱりとやめて、この3年間一滴も飲んでおりません。というと、なにか真人間になったかのような感じもしますけど、それまでがひどいマイナス状態だったので、これでやっとゼロポイントに戻れたかなって感じです。まだ普通の人間レベルに戻ってはいないです(残念)。

「よくやめられたね。ちょっとくらい飲んでもいいのに」とよく言われるのですが、これは全く逆な話で、酒がやめられない人間だから、一切断つしかなかったわけです。ちゃんと自制心のある人間ならゆるいやめ方ができまでしょうけど、自分みたいなクズ of クズな人間の場合は、中途半端にやめることができないのです。この感覚はクズにしかわからないかもしれないですね。"ちゃんとした" 人だからこそ、中途半端にやめられるのであって、れっきとしたクズにはそんな芸当はできないのです。

たまに、飲み会の時だけタバコを吸う方がいらっしゃいますけど、僕には全くできないことです。一度吸ったら最後。次の日からベビースモーカーに逆戻り確定です。実際に何度もこんな感じで禁煙に失敗してきましたし。

何かにすぐに依存してしまう人間は、依存対象から完全に隔離されてしまうことが一番ですね。視野に入ってしまうから、本能が搔き乱されるわけですね。

僕の場合は、タバコは割と我慢ができたのですけど、お酒の場合はなかなか難しい。どうしても仕事上、取引先との会食は避けて通れないですし、皆さんがお酒を飲んでいる中で自分だけ酒を断るのは、明らかに空気を読んでいない(笑)。

今日の会食相手は、半数が宗教的にお酒がタブーな国の人たちでした。そんな彼らですら、相手が日本人だからと付き合いで酒を軽く飲んでくれているのに、そんな空気を完全に無視して僕だけ完全に酒を拒否!!

これはね、流石に上司たちの評価を落としたでしょうねぇ… 上司たちからは直接的には酒を飲めとはいわれませんでしたけど、代わりに上司ではない人から散々に「酒ぐらい飲めよ」とか「1杯くらい付き合いで飲めよ」と言われました。くどくどと言われましたよ。まぁ、昨今はアルハラで簡単に訴えられてしまいますから、上司は酒を飲めとは絶対に言わないですね。墓穴を掘るほど馬鹿じゃないということですね。でも、直接関係のない人はガンガン言ってくるもんですね。羨ましいなぁ、こういうことを良心の呵責なく言える人って。

今日の一次会は一人当たりワイン1-2本くらいだから大して飲んでいないと思いますけど、それでも最後の方はみなさんホロ酔いな感じになって、中国式(のような) "乾杯" をやっていました。昔みたいにアホみたいに酒を飲むことはなくなりましたけど、それでも名残のようなものはまだありますね。こういうのをみると、東アジア人だなぁって実感します。遺伝的にお酒があまり飲めない人種なのに、東アジアの飲み会文化が激しくなってしまった理由が知りたい。なんてことを思いながら、一人だけ酒を酒を拒否し続けていたら、昔の上司 (日本人) に "I'm very disappointed that you have quit drinking." なんてちょっと目が真剣な感じで言われたり、5年ぶりくらいに会った人からは "Seriously? I remember you drank tons of alcohol." と言われる始末。おいおい、昔の自分は一体どんなイメージだったんだと自分で突っ込みたいところですが、やはり周りからの評価は「飲んだくれ」だったということで間違いなさそう。

酒を飲んでいたら飲んでいたで「こいつはダメなやつだ」と烙印を押され、酒を飲まなきゃ飲まないで、「酒を飲まないからこいつはダメなやつ」と烙印を押される。進むも退くも地獄ですな。飲酒の業は深いのでございます。

一次会で今日は解散!ということにはまずなりませんね。むしろ二次会の方が本番かも。酒が入った状態での会話なので、「あいつは仕事ができないからダメだ」みたいな不毛な会話が多いですね。きっと自分も酒の席で散々ボロクソに言われているんだろうぁ。でもまぁ、こういう昔ながらの生産性ゼロな飲み会って久しぶりなのでなんかちょっと懐かしい気もしました。改めて思うのは、やっぱりこの手の飲み会は四半期に1回とか、半年に1回で十分だなぁ(笑)。

そうこうしているうちにお店の閉店になってしまい、終電間際で家に帰りました。電車の中はぐでんぐでんに酔ったお父さんたちの屍が何体も横たわっていました。昔は自分もそのうちの一体だったのですが、今は素面。自分にこういう飲み会の文化の善悪を評価する権限はないですけど、ただ、今後はどんどんなくなっていくんだろうなぁ。僕らより上の世代は飲みにケーションに重きを置いていますけど、僕らよりも下の世代はそんなのは通用しないので、もっとクリーンでドライな関係を求める風潮が広がっていくんだろうなぁ。

パワハラについて

飲み会と同様に、パワハラに対する考え方も、僕らより上の世代と下の世代では絶望的なくらい理解に差がありますね。今の50代くらいの方々は「昔はそんなのは当たり前だったのに、時代が変わったからパワハラパワハラってうるせーよ」っていう感覚をもっている方がわりといるみたいですね。なんちゅーか、この考え方がそもそもダメなんじゃないかと思う。パワハラもセクハラも、それが良しとされていた(と思われている)時ですら、ダメだったと思うよ。時代の倫理が変わったという人もいるけど、今現時点でダメとされていることの多くは、昔でも理性的に考えたらダメだったでしょうよ。ただ、それが広く問題視されているかされていないかだけの違いだけで。

例えば、江戸時代の初期くらいはまだその辺歩いている人を辻斬りしちゃうくらいは普通にあったし、罪の意識はすごく軽くて割と許容(?)されていたけど、この当時の理性的な考えを適用したら、やっぱり辻斬りはアウトだと思うんですよ。江戸初期から中期にかけて価値観が変わったときに生きていた人たちはこんな会話をしていたんじゃないかな。

 侍 A「最近は百姓斬ったくらいで五月蠅いんだよぁ。いったい何で刀の切れ味を確かめればいいってんだよぉ」

 侍 B「全くだよあな。犬コロ斬るのもダメっていうしな。何斬ればいいんだよ。」

あ、侍なんか持ちだしてきたら話がよく分からなくなってきてしまった(笑)。

パワハラにつては、世代間の認識のギャップがあまりにひどいですね。これはそのままパワハラをする側とされる側の認識の差なんでしょうね。

「おれらの時はもっとひどい仕打ちをうけた」という方もいますけど、だからといってそれを若い世代にしてもいいという理屈にはなりませんし、自分が嫌な思いをしたのなら、若い世代には同じ思いをさせないようにしないといかんですね。・・・とはならないのが人間の難しいところ。なんで他人を不幸にさせたがるのか不思議ですね。

 

 

 

 

 

 

 

ダメな悩み方

あれもこれもはできないね

色々とやりたいことがやってだいぶ長いことブログの更新を止めていました。やりたいことっていうか、「今やらねば!」って感じのことかな。って書くと大仰ですけど、気になることが色々出てきてしまって、本をあれやこれや読んでいたら "本の沼" にはまって帰って来れなくなっただけです。Wikipediaで色々調べていたら、調べ始めていたのと全く関係のない記事に飛んでしまうことってありません?あれの読書版みたいな感じ。たぶん皆さんもこういう沼にハマることはよくあると思います。

読書以外にもボーイズの面倒をみたり、勉強をしたりなんだかんだで時間をたくさん取られておりました。人生はトレードオフ。何かをしたら、何かができないです。何かを選択するということは、それ以外を捨て去るということ。全部やりたくなってしまう現代人には時間が足りませんな。

24時間ネガティブ垂れ流し

もうすぐ四十路になろうというのに、迷うことばかりで、全然不惑からは程遠い感じに自分自身ちょっと呆れてしまいますけど、そうは言っても頭の中に勝手に不安や後悔がポンポン出てきてしまうのでこれを止めるのはなかなか難しいのです。こういう妄想が常に頭の中に渦巻いていて、いくら歳を重ねても人生の悩みの牢獄から抜け出せない。まぁ、自縄自縛ってやつで、その牢獄に自分を閉じ込めているのは自分なわけなんですけど、これが感覚的にわからんのです。だからこそ、四十路を前にしてもいろんなことで悩んでしまう。みなさんもこんな感じないですかね?

僕なんかは「反芻思考の天才 (つまり人間のクズ)」なので、小さなことでも何回も何回も繰り返して悩んで、落ち込んで、そして鬱になります(笑)。よく「そんなことでくよくよするなよ」なんてアドバイスしてくれる方がいますけど、そもそもそれができているならとっくにしていますよと。妄想を止めるために色々と訓練 (のようなもの) をして、まぁまぁそれなりに効果はあったんですけど、そんなものを簡単にキャンセルしてしまうくらいとめどなく溢れてくる思考の波に呆然としちゃいますね。いくら妄想を止めようとしてもこれじゃあキリがない(笑)。24時間365日、頭がネガティブ垂れ流しな状態なんですよ。前まではこれをなんとかしようと格闘していましたけど、「抗ってもしゃーない」と最近は諦めてきました(笑)。あ、別に悪い意味で諦めたわけではなく、どっちかっていうと変えようのない現実を受け入れた感じです。自分の心もままならぬものだから、そういうもんだと認めるしかないなと。悪あがきすると、余計にメンタルが悪化してしまいますからね。

僕みたいに色々と悩みに取り憑かれやすい人は、一定数いると思います。小さいことから大きなことまで、まぁ、色々と悩みますよねぇ。僕の場合、一番大きな問題は「どうせ死ぬのになぜ生きるんだ」っていうことで、中学の時あたりから今に至るまで四六時中頭から離れないですね。つまり、中二から精神的に成長していないということですね。なんちゅーか、自分にガッカリです。でも、こういう実存的な悩みって、僕が周りの人を見ている限りでは、ちゃんと向き合って真剣に考え詰めた人って皆無ですね。これ系の悩み事をいうと「いつまで子供みたいな考えしてんだよ」って一蹴されますもんね。まぁ、いくら答えを探しても答えが見つからない問なので、考えること自体を放棄するというのも一つの手でありますね。その方がちゃんとした人生を送るにはそれがいいのかな。でなければ、抑鬱な人生が待っているかもしれんので (僕はこのパターンです)。

この如何ともし難い、どーしょーもない悩みに四半世紀も取られて、生を感じることもなく鬱々と過ごしてしまいましたが、もうこれ以上は自分一人で悩んでも意味がないですね。よく「時間制限を設けて悩め」なんていいますけど、まさにその通りだと思います。ある程度考えて答えの出ない問題は、他人に訊くか、しばらく棚上げにしておいた方がよさそう。考えが堂々巡りをしてしまって先に進めないですからね。少なくとも四半世紀も悩むもんじゃないのです(笑)。

専門家にきいてしまえ

もうね、25年もあれこれ悩んで鬱になったのなら、考え込むのは十分でしょう。たまには他人に頼ってしまいましょう。ということで、その手の専門の先生に話をきいてもらいました。恥も外聞もどうでもいいやといった感じであれこれ吐き出しみました。

実存的な問いが自分の中では一番の問題となっていますけど、もうちょっと掘り進んでいくと、生を感じ取れない自分のメンタルに問題があると思います。生命維持はしていますけど、ゾンビみたいな生き物に堕ちてしまっておるのです。

問題の根っこを探っていくと、幼少期の母親との関係にあったのかなぁと。正確には、姉と母親のとんでもない親子喧嘩を日常茶飯事的に見ていたことかな。まぁ、あまりにもひどいバトルだったので、自分の反抗期が全くなくなってしまったくらいです(笑)。

話を聞いてもらった先生に「まぁ、僕ももう四十路に近いですし、この歳で母親のとこを恨んだら憎んだりはしてませんけど」と話したら、先生に「それが問題ですよ」と即答されてしまいました。

なるほど。本来であれば、姉や母親に対して憎悪や反抗心を抱かなきゃいけないのに、それを全部心に抑え込んで蓋をしてしまったのが問題の根本にあると。なるほどなるほど。幼少期に自分の心に蓋をして、更にその蓋も覆い隠してしまったから、自分が自分を抑制してしまっていることに気づけなくなってしまっているらしいんです。これは言われてハッとしました。自分の気持ちを抑えつけ、隠し続けてきたせいで、自分が自分の気持ちを抑圧してきたそのことすらわからなくてっていると。これはなかなか重症ですな。

小さい頃にネガティブなものをたくさん見せつけられて、嫌な思いをしたから、ネガティブなもの、特に怒りというものに対して激しい嫌悪感を抱いてしまい、自分がネガティブな感情を抱くこと自体に嫌悪感を持ってしまったみたいです。だから、他人に対して「ノー」といったり、怒ったり、他人を嫌ったりすることができなくなってしまった。なるほどー。指摘されるまで気が付かなかったですねぇ。

振り返ってみると、小学生くらいまではものすごく気性が激しくて、超絶短気な性格だったのが、気が付けば誰ともぶつからない、好き嫌いのない八方美人的な人間に成長していましたが、これは大人になったわけではなくて、感情が抑制されてそして欠落してしまったために結果としてそうなっただけだったのですね。うん、成長というよりは退行していたんだ (泣)。

先生曰く、人間の喜怒哀楽の感情はネガティブなものから表出してくるものなので、それを抑圧してしまうと、喜びや楽しみといったポジティブなものも出てこなくなってしまうらしいです。うわー、これはめちゃくちゃ自分に当てはまる!!自分の場合、特に怒りの感情を押し殺してきたので、感情が機能不全を起こしてしまったんですねぇ。

ネガティブにも意味はある

ネガティブなものを、「臭いものには蓋」といわんばかりに隠してしまうと、後でとんでもないツケがくるようですね。ネガティブな感情は何か意味があってそれを自分自身に発しているのだから、それを黙殺したり、圧殺してはいかんわけですな。そういう感情がわいてくるのは当たり前のことだから、ちゃんと認めてやらないと、鬱になったりするわけねと (経験済み)。

この歳になって、自分の心が何を感じているかというのがものすごく大切なんだと思い知らされました。自分の心を無視すると、楽しみと喜びの感情から消えてしまい、そして生きる意味が感じられなくなってしまいますからね。若いうちは、それでも肉体がなんとかしてくれますけど、歳をとるにつれて抑鬱に対するごまかしがきかなくなってきます (笑)。自分の心を回復させていかないと。

まずはちゃんとネガティブな感情を抱く練習をしていきたいと思います。嫌な人やできごとに遭遇したら、ちゃんと心の底から「あのやろう!ぶっ〇してやる!!」って思うように訓練しよう。これ冗談なしで大切なことですよ。感情が死んでしまうと、よほどのことがないと、「まぁ、いいや。どうせ死ぬし」みたいな極端な考えしかでてこなくなりますからね。

自分が何を感じ、何を思っているか。これまで自分の心をぞんざいに扱ってしまったので大切にしたいと思います。

平日夜中の DIY (ベイビーにやられた棚の作りなおし)

先日、Wifiルーターをベイビーくんから保護するために棚を作ったのですが、作り上げた瞬間に散々に蹂躙されて惨敗に終わったのでした。

↓獲物をみつけてめちゃくちゃにするベイビーくん

全く役立たずな棚になってしまったので、作り直してリベンジしてやらんと気が済みません!前回の敗戦の原因は、棚に隙間があってルーターのランプの点滅がベイビーの気を引いてしまったことだと思います。ルーターは少し熱を持つので、換気をしてやらないとダメかなと思って、棚を格子状にしたんですが、それがかえって裏目に出てしまいました。

↓この隙間がアカンのですな。格子状にするのを止めにして、板で隙間をなくしちゃえば中身が見えなくなるので、ベイビーもこの棚に興味を持つこともなくなるんじゃないかな?

さて、善は急げです。仕事が終わってからホームセンターに向かいました。今日は長男を連れないで、一人で買い物をしたので、ものすごくスムーズにことが済みました(笑)。子供のいない買い物ってこんなに楽なんだ!!

アパートでは電動工具なんて使えませんので、ホームセンターであらかた切ってもらいました。

↓せっかく作った格子ですが、全部取り外してしまいましょう。そして、さっき切ってもらった板をここにピタッとはめ込みましょう。ピタッとね。ピタ… あれ?はまらん??

な、なんてこった!縦横ともに数ミリずつ大きい!!うそでしょ… やっぱりホームセンターだから、多少の誤差は生じるのかなって思い、板を測りなおしたんですが、ちゃんと注文したとおりの寸法です。なんと、自分の測定ミスでした。ああ、自分のバカ…!!

数ミリのミスってのがまたなんとも悔しいです。ホームセンターにいって切りなおしてもらうのも面倒だし、そもそももうホームセンターは閉店しているし…

悔しいけど、ノコギリで切るしかないかぁ。もー、手で数ミリだけ切るのってすごく面倒ですねぇ。工具があればちょちょいとできるのになあ。

↓とりあえず、まずは縦の長さを調整。うん、なんとかハマるようになりました。

横幅も縮めてやって、なんとかすっぽりはまる寸法になりました。ああ、面倒くさかった。ホームセンターで金出してカットしてもらって、家に帰ってさらに手で数ミリだけ切るとは、なんというムダ!

もともとの棚と同じ厚みの板を買ったつもりだったのに、全然厚さが違います。どうやらまた測り間違えていたみたい。どうした、自分。ろくに寸法も測れなくなってしまったのか。なんか今日はポンコツ過ぎです。

さて、次は棚の正面の格子も取り外してしまいましょう。

穴だらけになってしまったなぁ。これは裏側にしようかしら。

こうやって板をはめて蓋をしちゃいましょう!って、あれ?寸法がまた全然違う!なんで?こんなに測り間違えることってあるの??

またノコギリで寸法を合わせるはめになりました。普段ノコギリなんて使わないから腕が痛い(笑)。

蓋に蝶番を取りつけようとしたんですけど、蓋の厚みよりもネジの方が長い(笑)。おいおい、今日は何一つスムーズにことが進まないけど一体どうなっているんですかね?何か呪いでもかけられた??

ネジがはみ出す分だけ後で切り取ってしまいたいところですけど、そんな工具はうちにはないので、う―ん、どうすりゃいいんですかね。さっき取り外した格子用の木材をペタッ貼り付けて無理やり板の厚さを嵩増ししました。DIYの知識がないので、こういうときはどうすれば正解だったのかがわからんですね。まぁ、あんまり頭のよいやりたかではないことだけは確かですね(笑)。

蝶番を付けてやると、さっきまでとはまったく違う感じの棚になりました!

こうやってルーターを中に入れてやって・・・

蓋をすればルーターの姿は隠せますね。これでベイビーもその存在に気付かなくなるでしょう。蓋の鍵はまた今度つけようかな。

これまでの流れをまとめるとこんな感じです↓ 果たして今回の改良は吉と出るか、凶と出るか??

5分でできる超テキトーな棚

材料がちょっとだけあまったので、もう一つDIYみたいなことをしてみましょう。DIYっていうか、ただネジをしめるだけの作業なので、なんていうんだろう?DIYもどき?

今回のターゲットは風呂場の洗面台のものすごく中途半端なこの隙間↓ この反対側にはもっと中途半端な隙間がありますけど、それは今回は無視。このそこそこ広い空間に棚を置いてやりましょう。市販のやつだと、ちょうどぴったりなサイズが見つからないんですよねぇ。ならば自分で作ってしまった方が手っ取り早いですね。

築40年の年季がでまくりな風呂場

今回の棚には重たいものは何も載せないので、強度は度外視で作っちゃいます。薄さ重視でいきましょう。

どうでしょう、この頼りない感じ。かかと落としで簡単に破壊できそうな感じ。でも、いいんです。重たいものは何も載せないので。

水がかかると嫌なので、天板にはビニールのテーブルクロスを貼り付けておきましょう。

おー、ぴったり!やっと寸法通りにいった(笑)!

これで妻が化粧をするときに、ここに化粧道具がおけますな。

今回は強度を度外視して作ったので、うちのボーイズたちがこの棚を引きずり出してぶっ壊さないか、それだけが心配です。

 

ちなみに、前回の失敗談はこちらです↓ 良かったら失敗例として参考にしてください。今回の棚は二の舞にならないといいなぁ。

edo-kashiwa.hatenablog.com

 

映画「さかなのこ」を観ました

昨日の投稿で3連休は息子に付きっ切りだったと書いたんですが、その "付きっ切り" の内訳の一つが今回の映画鑑賞ですね。久しぶりに映画を観に行ってきました。

以前、息子がマックでハッピーミールを注文した際に、そのおまけでさかなクンの絵本がついてきて、更にそのおまけ的な感じで映画の告知もされていました。僕はさかなクンに関しては「変な子」ていどの感想しか持っていなかったですし、魚に対して何か特別な思い入れがあるわけでもないのですが、何故か今回の映画は気になっていたのです。

たぶん、気になったのはキャストのせいだろうなぁ。映画「さかなのこ」の主役は能年玲奈なんですよ。今は「のん」っていう名前に変わったのかな。あの朝ドラの「じぇじぇじぇ」の子ですよね。じぇじぇじぇの方のインパクトが強すぎて朝ドラのタイトルが全く思い出せません(笑)。

さかなクンってね、もちろん男性なんですけど、それを女性である能年玲奈がやるの??!ってところにかなりひっかかっておりました。これはもうね、クソ映画臭しかしないなって思っておったんですけど、いやいや、この映画なかなか面白いじゃないですか。見る前から「クソ」だなんて決めつけてスミマセンでした。

映画の感想を書いていきますが、たぶんネタばらし的なことも含まれると思いますので、映画を鑑賞予定の方は読まれない方がよろしいかと思います。

劇中の「さかなクン (ミー坊)」のことを書きますので、実際のさかなクンとはあまり関係のないことだと思いますよ。

ギョギョギョ

あの「じぇじぇじぇ」で有名な能年玲奈が主役なもんですから、僕は「どうせ "じぇじぇじぇ" の子に "ぎょぎょぎょ" って言わせたいだけの映画でしょ~」って思っていたんですけど、意外や意外、劇中で「ぎょぎょぎょ」がでたのは初盤くらいなもので、あとはミ―防 (劇中でのさかなクンのあだな) がテレビ出演をするまでぎょぎょぎょはほとんどでてこなかったですね。

タコ好きからさかなクン伝説がはじまる

さかなクンのことは「いつもギョギョギョっていってる変な子」くらいのイメージしかなかったので、正直全然詳しくなかったです。超魚好きなさかなクンですが、意外にもそのはじまりは魚ではなくてタコだったそうです。

毎週水族館に通っては、ひたすらタコさんを鑑賞していたそうな。これね、親としては結構キツイ修行でしょうね。子供本人はまったく飽きないからいいでしょうが、たぶんタコに強烈な思い入れのある大人ってそんなにいないですからね。

頭からタコのことが離れないミー坊は、起きてる間はずっとタコのことばかり考えていて、タコの白昼夢の中を生きているような子供です。

タコの絵を描いて、登下校も図鑑のタコをずっと見て、夕飯もずっとタコづくし!タコ三昧な生活にお父さんは「またタコかよぉ…」ってかなりウンザリ気味。

あるとき、ミー坊は家族と海に行きました(なぜか友達も一緒に)。海に来てもミー坊は頭の中からタコのことが離れず、海の中でお兄さんとタコを探しをしていました。

劇中では、ミー坊は、自分と同じくらいの大きさのタコをみつけて大喜び!その巨大なタコを体に貼りつけてみんなに見せにいきます。これはねぇ、僕の中では結構気持ち悪いシーンでした。小学生の体に巨大な吸盤だらけの生き物がくっついているんですからね。それよりびっくりなのが、ミー坊を見たお母さんの第一声が「わー、すごい!」。いやいや、「すごい」じゃないですよ(笑)。しかも割と落ち着いた声色でしたからね。普通、そこは悲鳴を上げてもいいんじゃないかな。まあ、劇の中なので実際よりかなり誇張されているでしょうけど。ミー坊もミー坊なら、このお母さんもお母さんだなぁ。寛容を通り越してちょっと頭がおかしいかもしれん(笑)。

"憧れのタコさん" を捕まえて幸せの絶頂にあったミー坊に悲劇が訪れます。息子が捕まえた巨大なタコを見つけたお父さん、その第一声は「でかしたなぁ、ミー坊!!」。いやいや、「でかした」とかじゃなくて、小学生が体に巨大なタコはりつけてきたら、普通 "ヤバい" って思うでしょ(笑)。

そんなお父さん、ミー坊から素早くタコを取り上げると、慣れた手つきでブチブチブチっとタコをシメて内臓 (?) を取り出して、「こうやらねぇとタコはうまくなんねぇんだよッ!!」って言いながらその巨大なタコをコンクリート(?)に親の仇といわんばかりに思いっきり叩きつけます。「おとっつぁん、そいつはオーバーキルだよ」っていいたいくらいに、何度も何度も「バチーン!バチーン!」ってタコを叩きつけるんですよ。たしかに、タコって硬くなっちゃうから、筋繊維をほぐしてやらないといけないらしいですけど、お父さんの目が殺気立っていて超怖い!息子のタコ好きのせいでタコ料理ばかり食わさせられた恨みを晴らしているようでしたね。

このシーン、僕には結構キツかったですねぇ。それまでほのぼのとした映画だったのに、何故ここで急にグロテスクなシーンを持ってくるよ!!これは子供が見たらトラウマになるんじゃないかな。

タコさんは、そのあとみんなでおいしく食べましたとさ。なんか、色々とトンデモナイ家庭だなぁ。

ギョギョおじさん

この映画には、なんとさかなクン本人も出演します。劇中では「ギョギョおじさん」という不審者 (?) 役なんですけど、挙動は普段のさかなクンそのままですね。さかなクンがいつも通り「ギョギョギョ!!」って叫んでる感じです。

劇中のギョギョおじさんは「没落した元金持ち」っていう設定で、特に定職はない感じです。あきらかに怪しい中年のおじさんです。

ミー坊が「ギョギョおじさんの家に遊びに行きたい」と親に伝えると、お父さんは間髪入れずに「そんなもんダメだ!ダメに決まってる!!」と否定します。うん、たぶんこれは父親として正しい判断です。だって、ハコフグの帽子をかぶって「ギョギョギョ」なんて言ってるおじさんはどっからどうみても怪しいですからね。

ところが、観音様レベルで寛容なお母さんは「いいじゃないのぉ」とギョギョおじさんのところに遊びに行くのを許してしまいます。微塵も人を疑おうとしないお母さんの性善説原理主義者っぷりにちょっと不安を覚えます。ホントにいいのか、お母さん?

結果、ミー坊とギョギョおじさんは "魚好き" ということで意気投合し、時を忘れて魚に夢中になっていたら、夜中の9時過ぎになってしまって警察に通報されてしまいました(笑)。

この時、ギョギョおじさんがミー坊にハコフグの帽子を渡すシーンがありました。これはちょっと驚きましたね。だって、さかなクンが帽子を取った姿ってみたことないですもん。国会に呼ばれたときなんかも頑なに(?)ハコフグの帽子を取らなかったんでしょ?なかには、あのハコフグこそがさかなくんの本体だと思っている人もいるでしょうに、そのハコフグをあっさりと取り外したんですもの。

で、さらに驚きなのが、帽子をとったさかなクンがあまりに普通過ぎてなんの驚きもなかったことです(笑)。まぁ、そりゃそっか、ただ帽子をとっただけだもんね。僕にとっては「帽子なしさかなクン」はなかなかのレアシーンでした。

このギョギョおじさん、魚にめちゃくちゃ詳しいけど、ちょっと変わり者で、社会にでて働いているわけでもない。これは、ひょっとしたらさかなクンのもう一つの可能せいかもしれないですね。現実世界のさかなクンは、魚好きという才能を余すところなく発揮して、「成功者」になったわけですけれども、もしテレビというメディアにでることがなかったら、このギョギョおじさんのように、一般社会に溶け込めないただの変人として終わっていたかもしれないです。

最後の方で、ギョギョおじさんがテレビに出ているミー坊に興奮シーンがあるのですが、これはその成功者と落伍者の対比かなぁと。

小学校でミー坊新聞が先生の間で認められる

学校でも何かにとりつかれたように魚の絵ばかり描いていたミー坊ですが、あるとき先生に職員室に呼び出されます。一体何事かと思いきや、ミー坊が発行していたオリジナルの新聞の出来があまりにも秀逸だったので、釣り好きの先生から大絶賛を受けたのです。これはさかなクンの自己形成に非常に重要な成功体験だったでしょうね。

仏様のようなお母さんから自分の好きなことをしてもいいと認められて、そして先生たちから賞賛されて自分の長所が魚好きでなおかつ絵を描くことであると幼少期に悟ったわけですからね。自分が他人と比べて何が優位であるのか、これが幼少期にはっきりとわかることってなかなかないので、いい経験ですね。これがはっきりとわからない、もしくはないからこそ、大半の人は悶々と過ごすことになりますわね。

周囲の大人たちに恵まれていたからこそ、ミー坊の特殊な才能はぐんぐんと伸びていったんですね。僕たち大人はなんでもかんでもダメだダメだっていって、子供の可能性を摘み取ってしまうので気を付けないといかんですね。子供の才能を伸ばそうとするんじゃなくて、いかに邪魔をしないかってのが大切かな。ミー坊も幼少期に魚好きを全否定されたら、その才能は開花しなかったわけで。そして、ミー坊のおとっつぁんは「あいつキモイ」くらいの勢いでミー坊の魚好きを全否定していました(笑)。理解あるお母さんがいたからミー坊はすくわれましたね。

高校に入ってからも相変わらずの魚好き

高校に入ってからもミー坊の魚好きは止まらず、というかむしろ加速しちゃって結構ヤバい感じになっています。魚の剥製を作って机の中にしまっていますからねぇ、同級生にいたらちょっとお近づきにはなりたくないですね。

不良グループに目を付けられるも、ミー坊の空気の読めなさがズバ抜けていて、不良たちとの会話が全然成立しない(笑)。コミュニケーションがあまりに成立しなくてミー坊に空恐ろしさすら感じてしまいます。不良グループに絡まれても、なぜかみんなさかなクンの独特な雰囲気に飲み込まれて戦意を失い (? )最終的に仲間のような感じになってしまいます。空気の読めなさが訳の分からない特殊能力に昇華していますね。コミュ障も極めれば、それが逆にコミュニケーションツールになるのかしら。

他の学校の不良たちと衝突した際も、「みんなでアオリイカ食って大団円」という謎な展開を迎えます。このとき、アオリイカのおいしさに感動した相手校の不良のトップ(籾山(通称: カミソリモミ)) はその後、すし職人に弟子入りして、自分のお店を持つようになります。

魚以外の科目は全く振るわず…

魚に関しては異様な能力を示すミー坊ですが、その他のお勉強はからっきしです。先生とお母さんとの三者面談では、成績の悪さを指摘されて、もっと勉強を頑張ってくれと言われるのですが、なぜかお母さんは「この子は魚と絵が好きだからそれでいい」の一点張り(笑)。

「みんな違ってみんないい」を極めるとミー坊のお母さんになりますね。みんなお勉強できる子ばかりじゃロボットみたい。この子はこの子の良さがあるから、それでいいの。って、すごい達観してるなぁ!僕は、ミー坊よりもこのお母さんのことがちょっと心配になってしまいました(笑)。

この作品では、お父さんとこの先生が常識や世間代表として描かれていて、お母さんがミー坊派 (子供の個性尊重) として描かれています。父親っていうのは、子供を社会に出す責任があるので、現実的なキビシイとことを言わなきゃいけないのです。しかし、その "子供のため" の言動が子供の想像力や才能を奪ってしまうこともありますわな。これは匙加減が実に難しいですね。

ミー坊は最終的に成功者になったからよかったものの、一歩間違えばギョギョおじさんみたいになったかもしれないっていうか、確率的にはそっちの方が高いですからね。このリスクを考えると、お父さんや先生の取る態度は「正解」であって、お母さんの浮世離れした対応の方が「不正解」かもしれません。

でもまぁ、なんにしろミー坊はちょっとぶっ飛んでるから、普通の生活は送れなかったでしょうねぇ。詳細は描かれていなかったですが、どうやらそんなちょっと問題児であるミー坊に対する教育方針も両親の離婚原因の一つだったっぽいですね。両親の離婚後は、ミー坊はお母さんと二人暮らしをしていたみたいです。

劇中では大学受験をしたのかどうかは不明でしたが、大学には行っていないようですね。お母さんに後押しされて、家を出て東京にいくことになりますが、引っ越し後の部屋のシーンがよかったですねぇ。

ミー坊は魚が好き過ぎて、狭いアパートにもたくさん水槽を置いて魚を飼育していたんですけど、畳の部屋だろうがリビングだろうがお構いなしだったんですね。普通の親だったら、さすがに「畳の部屋に水槽は置かないでくれ」ってなりますけど、ミー坊のお母さんはそれを許しているんですよ。ミー坊の引っ越しと同時に、水槽も搬出されたわけですけど、水槽のあった畳はカビだらけになってるんですよ。僕だったらマジで勘弁してくれって思いますけど、それを受け入れちゃうのがこのお母さんの懐の広さですね。

何をやってもうまくいかない

さて、家を出たミー坊は職を転々とします。劇中では水族館の飼育員やすし屋を経験しますが、全くうまくいきません。やっぱりね、だと思いましたよ(笑)。能力を魚に全振りしているので、通常の人が問題なくできることがミー坊にはできないんです。天才の典型的なパターンですね。行きつけの魚専門のペットショップの店長に拾ってもらってなんとか糊口をしのぐことになります。

これはなかなか勉強になりますね。「好きを仕事」にして失敗するパターンですね。よくあるんじゃないでしょうか。本が好きだから本屋の店員になるとか、音楽が好きだから、エンターテインメント系の会社に入っちゃうとかね。

ミー坊の場合は、魚は好きだけど、単調な作業とかが全くできないので普通の仕事には向いていなかったんですね。個性が強烈過ぎるので、それ自体を売りにするのが一番よかったんだけど、それに気づくのには時間と試行が必要だったんですね。

ちょっとだけ大人になる

実話かどうかは知りませんけど、ミー坊のところに幼馴染が子供をつれて転がり込んできて、しばらくの間奇妙な同棲生活をしていました。疑似家族生活をしていく中で、浮世離れしていたミー坊にもおそらく責任感がわいてきたのでしょう、命よりも大切な魚の水槽をいくつか処分して、さらにペットショップの店長に「金が欲しいからもっと働きたい」と懇願します。

これまでずっと子供じみていたミー坊が初めて大人らしい様子をみせました。家族 (?) を持つことによって成長したんですね。

しかし、そんな疑似家族生活も長続きはしませんでした。たぶん、自分たちがミー坊の負担になっていると感じて、幼馴染は家を出ていく決心をしたんでしょう。

ミー坊は、子供のためにプレゼントを買ってきたのに、部屋の中に入ると子供が描いてくれた絵と家の鍵が机の上にポツンんとおいてあるだけ。いるはずの家族がいない。これには、さすがのミー坊も大ショックで、居酒屋で飲んだくれて「シシャモをだせー!樺太シシャモはシシャモじゃねぇ!モノホンのシシャモをだせー!!」っとちょっと面倒くさい海原雄山みたいな感じになっていました。

お母さんの口から衝撃の事実が明かされる

この後、高校の時の不良友達と再会して、カミソリモミのすし屋の壁に絵を描くように依頼されます。ミー坊は張り切ってお店の壁に絵を描きまくります。まさに水を得た魚のように必死になって絵を描いたのです。

お寿司屋さんのオープンの時に、ミー坊のお母さんもやってきて、一緒にお寿司を食べることになったのですが、ここでお母さんの口から衝撃の事実が明かされます。

お母さん「実は今まで黙っていたけど、お母さんお魚苦手なの

ミー坊「えっ!?」

お母さん「お父さんとスミオ (兄) もよ。だからー、お父さんたちにはちょっと無理させちゃったかもしれないわね」

なんということでしょう。お母さん、今更そんな重要なこと告白しちゃうの(笑)??ミー坊家で魚好きはミー坊ただ一人で、他のみんなは魚嫌いという衝撃の事実です。それなのに、みんな毎日毎日食卓に魚が出るのを我慢していたんですね。親が離婚した主要原因はたぶんミー坊でしょう(笑)。

この後、お店の絵が評判になって他にもオファーをもらったり、同級生からテレビ番組の出演依頼を受けたりして、ミー坊はやっと自分の転職に出会います。「さかなクン」の誕生ですね。

能年玲奈が案外しっくりくる配役だった

作品を見る前は、「なぜにさかなクン役を能年玲奈がやんの??」って疑問視しておったんですけど、これがなかなかはまり役だったと思います。能年玲奈の天然な感じっていうか、ちょっとイッちゃってる感じがさかなクンにぴったりでしたね。

今回の映画は、僕は親目線で観たわけですが、さかなクンはお母さんあってこそ誕生したんだなぁって思いました。現実にはあんなに寛容なお母さんは存在しないですよ。普通なら、さかなクンの才能をペキッと折ってそれで終了です。世の中にはいつの時代も天才が生まれているんでしょうけど、その才能をちゃんと開花できる人は本当に一握りなんでしょうね。僕も子供を育てるときは気を付けないと。いかに変な口出しをしないか、いかに阻害しないかですね。

で、ここまで書いてあれですけど、なんでさかなクンが映画の題材に選ばれたんだろう?なにか受賞したりしたのかな。次は武井壮あたりも作って欲しいな(笑)。

 

 

 

イクメンっていうけど、そもそも子育てしない父親って存在するの?

いやぁ、やっと三連休が終わりました。みなさんどうお過ごしでしたでしょうか?僕はといいますと、3日間息子がぴったり張り付いていたので、もうね、くったくたに疲れました。特に日曜日の夕方過ぎからは、あまりに疲れすぎてもう息子の言葉にもろくに反応できなくなって「ああ」と「うん、そうね」くらいの生半可な返事しか出てきませんでした。

3日間息子が僕に張り付いていたっていうのは、全然誇張表現じゃなくてですね、それこそウンチのときも一緒なんですよ。息子がウンチするときは、息子が「ドア閉めないで!!ちゃんと見てて!!」っていうので、毎回毎回見守らなきゃあかんわけです。さすがにねぇ、もうすぐ6歳なんだから一人でウンチくらいしてほしいんだけどなぁ。

それでもって僕がウンチするときも勝手にドアを開けて確認しようとしてくるんでプライベートも何もあったもんじゃないですよね(笑)。親子とはいえ、他人の排泄行為の確認はせんといてほしいな。

できる限り嫁から長男を離さないといけない

こんな感じでうちの長男くんは大変なんですけど、これに加えて1歳のベイビーくんがいるので、普段の妻の子育て負担は半端じゃないです。子供が2-3人いるご家庭はたくさんいらっしゃるんで、「そんなのあたりまえだ」って思われるかたもいるかと思うんですが、たぶんうちの5歳児は客観的にみてもかなりハードモードな子じゃないかなぁって思います。

うちの姉は子供が3人いるんですが、その姉が「ケンちゃん1人みるよりも、うちの子3人みた方がはるかに楽」っていってました。うちの母親も「この子は大変だわ…」ってちょっと呆れてましたしねぇ。

寝ないし、暴れまくるし、好き嫌いは激しいし、言うことは全くきかないのに、性格がめちゃくちゃ繊細… モールとかでお行儀のよい育ちのいい感じのおぼっちゃんをみると同じ子供なのかと愕然としますね。

子供には親の変な望みを極力押し付けちゃいけないと思い、健康であればいいと思って名前に「健」の字を使ったんですけど、これは予想をはるかに上回って元気過ぎる(笑)。元気なことはいいことなんだけど、ちょっと手に負えないレベル。鎮静剤を打ちたくなっちゃうレベルです。

こんなちょっと "ヤバい" レベルで元気な5歳児と1歳児を、普段の日中は妻が面倒を見ているので、彼女のストレスは計り知れないですわね。長男が次男を結構乱暴に扱って泣かせたりするので、うちの妻はいつも怒髪天を突きまくりなわけです。その内我が家のうちの天井は抜けるんじゃないかっていう感じです。

わかりやすくいうと、うちの妻の長男に対する態度は「うちの可愛いベイビーに触るんじゃないわよ!!」っていう感じ。どっちもうちの子なんですけどね(笑)。

子育てストレスだけでも大変なのに、そこに "長男ブースト" がかかりまくってしまっているので、どえらいことになっているんです。もうね、できるだけ妻から長男を物理的に離さないとそのうち血の雨が降りかねん…

子育てしない父親なんて存在するの??

この3連休は特に長男とずーーーーっと一緒だったような気がします。お出かけも二人きりだったし、お風呂もトイレも二人だしね (トイレはなぁ…)。

寝るときももちろん一緒。普段は、僕は別の部屋で寝ているので、一緒に寝るのは休んの時だけです。一緒に寝るのが嬉しいのか、息子は「パパ、今日は朝までずっと一緒にいてね」って、女の人から言われたらすごく嬉しい感じのセリフを言ってくれます。言ってくれているのが5歳児ってのがちょっと残念(笑)。

で、問題はといいますと、この長男、ぜんぜん寝ないんです。赤ちゃんの時からそうだったんですけど、夜全然寝ないし、昼寝もしない。休日は、狙ってやっているんだかわかならいですけど、普段より早く起きるときたもんです。こりゃたまらんですな。それでもって、ベイビーくんの夜泣きもセットでついてきます。こんな壮絶な感じなので、妻には申し訳ないですが、平日は僕だけ別の部屋で寝ています。

長男一人だけのときは、またよかったです。大人:子供= 2 : 1 なので、まぁ、大変ながらもまだ今よりはマシだったなと思います。振り返ってみるとね。これが大人と子供の数がイーブンになってしまうと、いきなり難易度が爆上がりです。どちらも子供につきっきり状態になっちゃいますからね。

で、ここで僕の疑問なんですけど、果たして世の中に育児をしないお父っつぁんっていうのは存在するんですかね?今時は核家族ばっかりだと思いますけど、この状況で「育児・家事をしない」という選択肢はどっからどうかんがえてもひねり出されないと思うんだけど。

妻が専業主婦の場合でも、育児なんて無理ゲーでしょうよ。まだ実家が近くで親の助けが得られる場合はいいですけど、そうじゃない場合は、絶対にムリムリ。

イクメンっていうけどさ…

イクメンっていう響きがあまり好きじゃなかったんですけど、よく考えてみたら、ちゃんと言葉の定義を調べてことがなかったので調べてみました。すると、こんなことが書かれいますね。

イクメンとは、子育てを楽しみ、自分自身も成長する男性のこと。または、将来そんな人生を送ろうと考えている男性のこと。

あー、なるほど。この定義からすると、ただ子育てをする父親はイクメンカテゴリーには入らないですね。これは結構ハードル高くないかなぁ?

子育てはレジャーじゃないですからね、毎日子供と対峙せんといかんわけですよ。でもそんな子育てを「楽しみ」そしてなおかつ「自分自身も成長する」ですとな。

たぶんね、僕以外の父親、そして、お母さんたちも同じことを思うはずです。

「なに寝ぼけたこといいやがってんだ!」って(笑)。

確かに、子供の成長を見守るのは楽しいですし、もちろん自分自身も成長するので、全く持って間違ったことを言ってないと思いますけど、けどね、こうやってさらっと書かれると「何言ってんだこいつ」って思うのはだぶん僕だけではないハズ。

今回ちゃんとイクメンという言葉を調べてよかったです。この言葉に反感を持つ時点で僕はただの父親であって、イクメンカテゴリーには入らないですね(笑)。本当に世の中にイクメンっていうのがいるんなら誰か連れてきてよ。そんなのツチノコみたいなもんでしょ??え?違うの?いるの…?

専業主婦で一日子供といる人はホント大変だわ

今日は、この前作ったルーターをベイビーから守るための棚を改良しようと、ホームセンターに材料を買いに行こうと思ったんです。寸法も測って、どういうものを作ろうかイメージ図をテキトーに描いて、さて買い物に行こうとしたら、長男くんがすかさず「ケンちゃんも行くー!!公園に虫取り行くー!!」って叫ぶんですよ。え?君の父親はホームセンターに行くって言ったのに、「公園」という単語も「虫」という単語も一言も発していないぞ??なぜホームセンターから虫取りに飛躍するよ??

そんなこんなで、近くの公園にいって虫取りをしました。はい、もちろん僕が虫を取りました。自分で「公園に行きたい」っていったくせに、公園に行ったら行ったで「なんで虫がいないのー?」って言いながら怒り出すんですからねぇ。子供あるあるだと思いますけど。

僕は、まだ平日は仕事にでかけているからいいですけど、これと四六時中一緒にいるとなると、お母さんっていうのは本当に大変ですね。前述とちょっと重複しますけど、そもそも、核家族で子供を育てるってのが無理なんじゃないかなかと。

僕の親世代(今60代くらいの人たち)が子供の頃って、親に育ててもらったことってほとんどないんですよね。兄弟や近所の子供同士で遊んだり、小さい子の面倒みたりしたんですよね。今みたいに、親が付きっ切りで子供の面倒をみるっていう状況は、歴史上ほどんどなかったんじゃないのかなぁ。

最近の研究で、親がどう育てるかはあんまり子供に影響しないとかって言われてますしね。親の影響よりも、同世代の子供たちからの影響が強いって言われますけど、たしかにそうだなと思います。同世代の子のしゃべり方とか態度をすぐに真似しますからね。残念ながら、親の行動よりも、伝播力が強いんだろうなぁ。

うちの子は話し始めるのが結構遅かったんですけど(周りに日本語話す子がいなかったたので)、一時帰国して従妹たちと遊んだら急激に言葉をペラペラ話始めましたねぇ。親の話しかけはあんま意味がなかったかも(笑)。

えーと、まとめると「親は無くとも子は育つ」ってことですかね。真面目過ぎて子育てに悩んだり、それで鬱になってしまう方もいますけど、そんなに肩ひじ張って子育てしなくてもいいんじゃないかな。僕の場合は、自分が優秀な人間じゃないので、子供が思うように育ってくれなくても「てめぇの子供だからしゃーない」(笑)。

四十路を目前にしていまさら自己分析してみたけど、やっぱり自分のことはよくわからんのです

マルチタスクが全くできない人間でして、同時に複数の仕事がこなせる人が信じられないですね。プライベートについてもこれは当てはまっていて、やりたいことを同時にいくつも掛け持つことができないです。

かと言って、一つのことに熱中し続けられるかというと、別段そう言うわけでもなく、何かにハマるとその一時は集中するけど、またすぐに他のことに気が向いてしまいます。みなさんもそんなことないですかね?ただの飽き性なのかもしれんですけど(笑)。

そんな飽き性人間が珍しくこのブログを数ヶ月続けておったんですけど、ちょっと他のことに興味が湧いてきて、さらにハマってしまったがゆえにしばらく書くことをやめていました。

この春から仕事を辞める準備を少しずつやっていて、何かいいアイデアはないものかと家にある本を眺めていたら自己分析の本が目に止まりました。

自己分析って、大学生が就活の時に必死こいてやるやつらしいじゃないですか。みなさんはちゃんとまじめにやりましたか?僕は、大学時代はめちゃくちゃ斜に構える質だったので、自己分析なんて鼻で笑って見向きもしませんでした。はい、こういうのをダメ人間といいますね。昔の自分はダメだったなと言う反省を込めて、だいぶ前に自己分析の本を買ったんですけど、何故だかもう一度ちゃんとやらなきゃいけないような気がしてやってみました。

もう四十路前なのに今更自己分析だなんて、「なにやってんだこいつ」って馬鹿にするでしょ?その通りだと思いますよ。子供もいるのに今になって自分探しかよってね。

 

そもそもね、「自分探し」とか「自己分析」ってのは何か違和感を感じるんですよ。大半の人がこう思うんじゃないかなぁ…「そんなもんわかるわけないだろ、バカ!」って(笑)。

自分自身のことを振り返ってみると、数年前と今では考えていることや思考法自体が全然違うし、もっと遡って、20代のころや10代のころと今を比較すると、全くの別人と言ってもいいと思います。昔の偉い人の考え方を借りると、自分ってのは五蘊の集合体に過ぎないから、僕らが普段あると思い込んでいる自分なんてもんはありゃせんのだと。そうだよなぁ、常一不変の自分っていうのをついつい考えてしまうけど、そんなものは幻想に過ぎないですわね。でも、そんなものがあると思っちゃうんだよねぇ、つい癖で。「自分探し」で自分が見つからない理由はここですね。そもそも、てめぇの探している自分なんてのはありゃしねぇんだと。

自己分析ってのにも同じことが当てはまって、分析したところでその都度結果が変わるからどこまであてにできたもんかなと疑問です。質問のきき方や質問に答えるタイミングによって結構答えが変わりません?自己分析とはちょっと違うかもしれないですけど、自分が昔書いた文章を読むと「こんなこと書いたっけ!?」って驚くことありませんか?身に覚えのない文章が我が家には山積しております(笑)。

 

散々、自分探しや自己分析をディスってしまいましたが、それでも今回はあえて自己分析をやってみようと思いました。アラフォーなのにね(笑)。いや、人生の岐路に立っているアラフォーこそやるべきなのかもしれません!

自分っていうのはありえんほどコロコロコロコロ変わっていってしまうから、全くつかみどころがないわけですけれども、それでもなんとなーくの傾向みたいなもんは掴めるかもしれんなと思ったわけです。例えば、僕の場合だと、めちゃくちゃ気にしちゃう性格ってのは30年以上変わっていないので、今後も変わらない可能性が高いとかね。

自分ってのを川みたいなもんだと考えればわかりやすいですかね。例えば、荒川。荒川っていう確固たるものがあるもんだと思いがちだけど、川は一瞬一瞬変化していくから、荒川なんてものは概念の中にしか存在していない。江戸初期くらいまで遡ると流れている場所も今とは全く違っていて、そいつを今と同じ「荒川」と呼んでいいものか甚だ疑問だけれども、とりあえず便宜上あの水の流れてるやつを僕らは荒川と呼んでいる。常に変わっているやつだけれども、「関東地方にある」とか「太平洋側に面している」とかの大雑把なことろは昔と変わっていないし、やつは信濃川とは違うって感じの差異くらいは変わらずにありますわね。

これって、人間に対しても同じことが当てはまるんじゃないかな。ガチッとした自己なんてものは存在しないけど、一般生活をする上で、私的なもんは確かに存在するっぽい。その私みたいなもののザックリとした傾向はもしかしたら掴めるかもしれんと。グダグダ書きましたけど、こんな感じで自己分析をやってみたわけです。

 

いきなり「よっしゃ!自己分析や!」って思い立ったわけではなくて、本棚を眺めていた時に久しぶりに目に入ってきた「ずっとやりたかったことをやりなさい」を読見返したのがきっかけでした。

この作品で紹介されているモーニングページってのは僕のお気に入りなんですけど、頭の中の毒を中にはとても効果的な方法です。この作者の書いていることは若干スピリチュアルがかっていますけど、このモーニングページってやつは万人におすすめできるもんだと思います。

久しぶりに本気を出して頭の中の妄想を次から次へと書き出していたら、急に「この後どうするかなぁ… 自分が本当にやりたいこと、やるべきことはなんだろうなあ」っていう思春期の学生みたいな考えフツフツとわいてきました。そして、大学生の時にまじめに取り組まなかった自己分析でもやってみようかと思ったわけです。で、そんなときに自己分析の本が目に入ってきたわけです。

 

自己分析とかやりたいことを考えるときの軸は主に3つですかね。自分が大切にしてることとか、価値観。自分の好きなこと。自分の得意なこと。誰も解析していくのは難しいですが、一番難しいのは「価値観」を見出すことかなぁ。これが人生の基準になりますからね。創唱宗教を信じている人は明確な答えがあるので、この辺のことは悩まなくてもいいと思いますけど、明確な信仰を持っていない人間にとっちゃこれが一番厄介な問題です。

最近は意識高い系の人が「私のミッションステートメントは〜」なんて言ってたりしますけど、ああいうのを見ては、気持ち悪いなぁと思う反面、ものすごく羨ましく感じます。我々の多くは信仰のない宗教にどっぷり浸かってますけど、ミッションステートメント云々を堂々と言える人は、宗教なき信仰が持てているわけですからね。ホント羨ましいわ… 

で、僕の価値観ってのは一体なんなのかなぁって書き出していったら、ベースは正義とか道徳といったもので、一番最上位にくるものが「知識」でした。これ、ホントかよ(笑)?本に書いてある通りにやっていったんですけど、なんかいまいち釈然としないなぁ。価値観っていうか、ただのないものねだりなんじゃねぇかなぁ。

まぁ、いいでしょう。とりあえず、僕の1番の価値観は人を助けることでもなければ、世界平和の実現でもなく、自分の知識を高めることね。なんて利己的なやつだ(笑)!暫定価値観ということにしておきましょう。知識のない自分が知識に価値観を置いているとは皮肉なもんです。いや、知識がないからこそなのかな。

 

お次は自分の好きなこと、興味のあること。これは書き挙げてみると、まぁまぁそこそこ出てきちゃうんで、結構カオスです。自分の方向性がよくわからなくなってしまいますね。

学問系で好きなことは、歴史、仏教、哲学、心理、発音(発声?)です。これらに共通することは、新しく知るとこが楽しいってことかなぁ。ってなると、さっきの価値観もまんざらハズレではないのかな。

あとは、モノをつくること、細かい作業をすること、何かをキレイにすること、などなど。つまり、地味なやつが好きですな(笑)。

子供の頃を振り返ってみると、とにかく人を笑わせるのが好きでした。っていうと、天真爛漫な素直な子をイメージするかもしれませんが、全くそれとは逆の感じです。天邪鬼なので、ひねくれた笑い専門です。

うーん、こうして好きなことを挙げると一貫性がないなぁ。

 

では得意なことはなんでしょうかね。これは自分で書くの恥ずかしいので詳しく書くのはやめておきましょう(笑)。自分では自分の良さってのがわからんので他の人にきいてみたら、忍耐強いとか、興味を持ったら一つのことに没頭するとか言われました。あと、長所ではないのですが、頑固すぎるみたいです。そんなバカな!こんなに柔軟な人間他にいないぞ!って思ってるのは自分だけみたい。

 

さてさて、ここから組み合わせてみしょうかね。好きと得意をかけ合わせるんですよね。定番ですな。簡単簡単って思いきや、めちゃくちゃ難しい!「好き」の方はまぁ、いいとして、「得意」の方の係数が軒並みゼロじゃね?って感じなのです(笑)。ゼロに何をかけてもゼロにしかならんよぉ。例えば、歴史好きと忍耐強さをかけても何も解が出てこない!

で、なんとかひねり出したものが「歴史を面白く伝える」… うーん… なんか微妙過ぎるなぁ… 思いつくものが歴史系のYouTuberになることくらいしかない… 「歴史」のところは他のものに代替しても問題ないんだけど、やっぱり後半のほうが問題よねぇ。いや、だって、係数がゼロにならない「得意」っていうやつを探してみたらかろうじてひっかかったのが「面白く伝える」だったんですよ。そしてこれが自分の得意なことかどうかは全くの疑問ですが。

まぁ、とりあえず今のところはこれでいいかな。まずは「暫定版」っていうことで。一応、この「歴史を面白く伝える」っていうのは、自分の価値観である知識のところにも共通するしね。たぶん。

 

ここまで書いてきてあれなんですけど、結論を言うと、やっぱり自己分析ってなんかしっくりこないな(笑)!インストラクション通りに進めていっても、途中から「あれ?なんか違わないか??」っていう疑念ばかりがでてくるんですよねぇ。まぁ、無駄だとはいわないですけど、完全に信用しちゃうのは危険ですね。たぶん1か月後に同じことやったらまた違う結果がでるでしょうし。あくまで「傾向」をつかむ程度かな。

 

今回、自己分析だなんだかんだやって、その間はブログを更新していませんでした。自己分析ばかりやっていたわけではなくて、ずーっとひたすら本を読みまくっていたんですけど、なにかをする時も「あ、このネタ書きたいな」とか、頭の中でブログを書く時みたいな調子で文章が流れてきたりしました。

更新を止めてみてわかったのですが、なるほど自分は文章を書きたいんだなと。自己分析だなんだかんだしてみましたけど、その分析の中には「文章を書く」という選択は一切挙がってこなかったのに!これは思いもしない効用でしたね。

文章を書くのは「苦手だけど、好き」ってやつですね。しかも、意味のある文章ではなくて、駄文を書くのが好きときたもんです。

 

問題なのは、インプットとアウトプットのバランスですよねぇ。やっぱり本とか読んで新しい知識を入れていかないと、自分がアップデートされていかないです。何もしないで現状維持ができるならまだいいですけど、そうはならずに退化していきますからね。本を読みたいけど、駄文も書きたい。他の方は一体どうしているんだろうねぇ。

優秀な人はアウトプットのためのインプットがちゃんとできているからそもそもこんなところでは悩まないのかな。僕の場合は、ダメね。スイッチがぶっ壊れているから、書く時は書くだけ。読む時は読むだけ。

 

「駄文書きたい欲」が止まらず、ここまで支離滅裂に書いてしまいました。じつは自己分析とか別にどうでもよかったりして(笑)。冗談はさておき、しばらくはインプットとモーニングページに時間を割きたいからブログに駄文を書き散らす頻度を下げていこうかしらんと思ったしだいです。