茹で蛙の盆踊り

茹で蛙の盆踊り

アラフォーサラリーマンが、まぬけな子育て話などをお届けします

いまさらだけどChatGPT ってすごいね

すでに旬を過ぎたネタかもしれませんけど、いやー、ChatGPT ってすごいですね。そりゃ、ニュースや巷間でそのずば抜けた性能は知っておりましたけど、使ってみて「なるほど、これらみんな騒ぐわけだな」と納得しました。なんで出始めた時はあんまり興味がわかなかったんだろう。みんながAI!AI!って騒ぐもんだから「またどうせいつものAI くるくる詐欺でしょ?」みたいにタカを括っておりました。何度目のAIブームだよって。名前に「チャット」なんてついてるもんだから、僕はてっきりSiriみたいなもんかなと思っていたんですけど、全く別物なのね。今までのなんちゃってAIとは別次元の領域に突っ込んでいたとは知らなかった。そりゃみんな騒ぐわけだわ。時代の波に完全に取り残されていたわ。

試しにテキトーに文章を作成させてみたけど、確かに "自然な" 文章を作成してくれる。いやいや、自然どころか、僕の文章の100倍まともな文章を瞬時に作ってくれる。知らない英単語があって、それを使った文章を「 “シンデレラ” で作って」と無茶振りしたんですけど、ちゃんとそれなりの例文を作ってくれました。しかも、ちゃんとエクスキューズまでつけて。リスク回避までしてくるところがやらしいな。

昔は、機械翻訳とかはヘンテコな不自然な文章を出してきましたけれど、Chap GPT の文章は本当に自然ですね。これまでの人工知能との格差があり過ぎて、一体何が起きたのかと素人としては驚愕ものですよ。こんなのが出てきてしまったら、そりゃたしかに「もう人間要らないな」ってなりますね。僕が経営者なら、すぐにAIに置き換えられるところは置き換えていっちゃうな。経営陣こそAIの方がいいかもわからんしね。

コールセンターは、今でも結構自動化されてるけど、いよいよ人間が要らない時代になってきましたねぇ。クレーム対応に特化したAIも出てきたりして(笑)。

ChatGPT にハマる

こいつの有能さにハマってしまって、色々遊んでみました。僕は、てっきり ChatGPT が Googleの上位互換的なものかと思っていましたけど、そうじゃないんですね。どれだけこいつに無茶振りをさせることができるか。頭のいい人は、誰も思いつかない方法でChat GPTを使い倒して金儲けをするんでしょうね。そりゃみんな騒ぐはずだわ。金の匂いしかしない

そんな金とは無縁のところで僕は家族が寝静まってから、一人でキャッキャと ChatGPT を使って遊んでおりました。

今まで海外のニュースを読んでも、その前提を知らないから結局何のことかわからないことが多々ありました。そんな時こそこいつの出番ですね。 ChatGPT は2021年9月分までしか情報が入っていないと謙虚なことを言ってますけど、それなりに情報を与えてやると、そのニュースに関する補足説明をしてくれる。これはめちゃくちゃ便利だなぁ。

例えば、アメリカの最高裁アラバマの選挙区についての判決が出ていたけど、背景を知らないから、何がポイントなのかよくわからない。ChatGPT に簡単に解説してもらうと何が起きていて、何が争点になっているのかがクリアになってニュースが10倍よくわかる。これは素晴らしいアシスタントだなと興奮してやたらめったら試してしまいました。

こういうインスタントで「わかる」ってのはあんまりよくないんだけど、わからないで挫折するよりはマシかなって言い訳をしてる。本当は、じっくり時間をかけて調べてわかろうとするのがいいんですけどね。

第二言語の学習にも使えるね

英語の学習にも ChatGPT は有効に使えそうです。例えば、ドラマで知らない表現が出てきた時、ノンネイティブにはその表現が一般的に使われているものなのか、それともその場限りの特殊な表現なのかよくわからないことが多々あります。そんな時に Chat GPT に訊いてみると、バシっと答えを出して、しかも他の例文も作ってくれる。これですよ、これ!欲しかったのはこういうやつです。でも、ちょいちょいウソが紛れ込んでるから気をつけないといけないけど。これが一番の問題かな。すごくもっともらしく偽りの情報を差し込んでくるから、気をつけてないと騙されそう。

英会話の壁打ちはAIの方がいいんじゃないか

今まで、会話の練習っていうと、駅前留学的なものに高い金を払って英語ネイティブ(もしくはネイティブ的な人) に英語を教えてもらってましたが、ここ最近のトレンドとしてはフィリピンとかの安い人材から搾取して英会話のサービスを提供するような感じかと思います。昔は「英語ネイティブ」というだけで、日本でも何とか飯が食えていた人たちが一気に窮するようになってしまい、その代わりに経済的に豊かではない地域の人にも活路がひらけたわけですけれども、もはやフィリピン英語講師も要らない時代ですな。生身の人間が教授する際の問題点をAIが解決してしまう。特に、ノンネイティブの英語講師の場合は、人によってレベルの差が激しい。AIも間違った情報を出すことがあるけど、人間(英語ノンネイティブ)と比べたら圧倒的に正確かつ的確な情報を与えてくれる。

第二言語を学習する場合は、アウトプットをどう行うのかというのが一番のネックかと思います。アウトプットするだけならできるけど、フィードバックがないと、自分が使った英語が正しいのか間違っているのかがわからない。スポーツと同じで、間違ったフォームを身につけてしまうとなかなか直らないから、先生から的確な指導を受けるのが望ましい。それがChatGPT なら簡単にできてしまう。なんで発表されたときにこいつの利用価値に興味を持たなかったのか悔やまれます。

ここまで言語学習とAIの相性の良さを賞賛しておいてなんですが、今のレベルまでAIが発達してしまうと、もはや我々が第二言語を苦労して習得する意味自体ないのかな(笑)!

真偽の判断

ここまでAIの技術が発展しても、それでもまだ明らかに間違った情報や、トンチンカンな受け答えをすることがあります。今まで以上に出された答えの真偽を見極める目が求められているのかもわからんですね。

昔、どこぞの掲示板の管理人が「ウソをウソと見極められないとネットを使うのは難しい」みたいな発言をしていましたけど、そういう世の中はますます加速しそうです。

結局のところ、何が問題かっていうと、人工知能と言いながらもいまだにやつらは考えることも意味を理解することもできていないってことだと思います。

AIにできないことがない時代になってしまいましたけど、最後のところはまだ人間の微調整が必要みたいですね。とはいえ、もはや人間が不要な時代ですなぁ。となると、いよいよ何のために生きるのか迷う人がこれから増えそうね。

 

どうせ死ぬのになぜ生きるのか?

中二病が止まらない

タイトルに「どうせ死ぬのになぜ生きるのか?」なんて書くとすごく中二病っぽい感じがするなぁ(笑)。でも、いくつになっても中二病は治らんのだからしゃーない。そもそも、今の日本に中二病じゃない人なんているかしらね?たぶん、みんな程度の違いこそあれ中二病の罹患者だと思う。一億総中二病なので、私のことも笑うことなかれと言いたいね。みんな仲間でしょ?違うかしら… 

この「どうせ死ぬのに…」って問いかけは中学生になったら誰でも一度は思うことですが、私の場合は、この "沼" にハマってしまって全く抜け出せなくなってしまった。かれこれ20年以上も "どうせ死ぬのに沼" にはまり続けてしまった。この沼にハマると全てのやる気を吸い取られてしまうので、本当にヤバい。人生の全てから意味を剥ぎ取られて、ただ生存するだけのゾンビのような存在になってしまう。「どうせ死ぬ」を枕詞にすると、すべてのものから意味がなくなってしまう。これはなかなかに耐え難い。何をしても意味を感じられなくなってしまう。何にも頑張れなくなってしまう。だってもう死んでしまうんだから。ってかなり深刻に悩んでおりました。「もうすぐ死ぬ」っていうのは、「あと50年とか60年もしたら死んでしまう」っていう意味です。すぐに死んでしまうのに、一体自分はなんのために生きているんだろうかと若い時期に思うのは仕方がないのですが、これがクリティカルに心に突き刺さると人生ダメになります。

実存的な悩みなんて、そう簡単に答えは出ないので、棚上げにするのが一番いい方法なのかもわかりません。死ぬその瞬間まで棚上げできたらきっと勝ち組だな。手塚治虫は、入院しても、死ぬ直前まで仕事に執着していたから、彼はひょっとしたら自分が死ぬという恐怖をずっと回避し続けることができたかもしれませんね。まぁ、そんな人は稀だろうけど。

中学の頃からこの実存的な問題にみんなどうやって向き合っているのかと思っておりましたが、私の狭い人間関係の中では実存的な問いで人生を絡め取られてしまっている人は皆無でした。これはなんか自分の想像と違っていました。いろんな人に訊いてみましたが、大抵「なにバカなこと訊いてるの?頭大丈夫?」みたいな反応しかなかったですね。あとは言葉には出さないけど「あー、まだ中二病的な考えから抜け出せないのね、かわいそう」みたいな反応とか。自分の弁護をするわけじゃないですけど、けどね、「どうして生きる」とか「何のために生きる」って問いを真摯に問い続けている人ってほとんどいないです。そもそもこんな問いを考えたことがないか、少し考えたけど面倒くさくなってやめたパターンがほとんど。とことん問い詰めてもいないのに、その問いかけを続けてしまう人を何故かバカにする謎の構図がある(笑)。あと、よく聞くのが「生きるのなんて何の意味もないですよー」なんていう発言。この言葉、よく平気で言うよねぇ。本当にこの言葉を受け取ったら絶望しかないのに。単純になにも考えていないか、本当にそう思っていて、それでいてそのことになにも感じない人なんでしょう。何故「意味がない」と言い切れるのか?意味があるかもわからんのに。まぁ、何にしても非常に難しい問題です。

これは釈迦の話だったかな?上記みたいなことを問われたときに、その辺に咲いてある花を指さして「この花に "意味" はあるのか?」と訊いたんだとか。たしかに、チューリップに何の意味があるのか、合理的な説明はつかない。これを押し広げていくと、神羅万象全てに意味があるとは言えない。かといって、意味がないとも言い切れない。少なくとも、人生において絶対的な意味は用意されていないってことでいいかな。でも、これがなかなかに難しくて、この事実をすんなり受け入れられる人と、その曖昧さが嫌で受け入れられない人がいる。私は後者の方でした。

現実逃避

人生の早い段階から、生きることの意味が剥ぎ取られてしまうと、あとは絶望感しか残りません。そして、激しい虚無感に襲われてしまいます。そんな人間がどういう行動をとるのか?自分の場合は、酒に溺れました。わかりやすいパターンですね。現実を直視したくないから、ただひたすら酒を浴びるように飲んで意識を飛ばしていました。しらふでいるのが辛かったんでしょう。夕方、家に帰るなり酒を飲みだし、吐くまで飲んで、意識がなくなったら、その日は終了。二日酔いでダルい体を引きずりながら、次の日が始まる。休みの日は、朝から酒を飲み始める。当時医者に診てもらったら、アルコール依存症と診断されていたに違いないと思います。たかが中二病、されど中二病。中二持病も重症化すると笑えないレベルになってしまいます。

中二病に酔っていたというのもありましょうが、私の場合は本当に酔っていました(笑)。常に二日酔いのような状態なので、まともに頭も働くわけもなく、そのせいでさらに抑鬱が悪化するという負のスパイラルに陥っていましたが、不思議なものでこういう最中にいるときはなかなか自分がどういう状況にいるのか客観視できない。さっさと酒をやめて、筋トレでも行けばいいのに。

絶望、虚無、抑鬱で人生が詰んでしまうと、感情がなくなってしまうようです。全く心が動かかなくなってしまい、それはもう生きる屍状態です。ただ生存しているだけ。「生きている」のではなくて「死んでいない」だけの状態。心が動かなくなると、物事が全く覚えられなくなります。かなり若い時期からものが全く覚えられなくなってしまったので、さすがにこれには恐怖を覚えました。アルコールのせいもあったでしょうが、若年性の痴呆になってしまったのかと思うくらい、何も頭に入らない。数秒前に聞いた人の名前も思い出せないし、昨日自分がどこで何をしたのかもわからない。記憶と情動は深い関りがあろとはいいますが、なるほど確かにそうだと思います。心が動かなくなると、何も記憶できない。記憶がなくなると、自分がなくなるのだなぁと思いました。記憶こそ、自己の同一性を保証しているんですね。

人生を担保するもの

「生きる意味」が人生の前提にあったらどれだけ楽なことか。どれだけ生きやすいかと若い頃から思っていたのですが、これがなかなか難しい。仏教は(大乗仏教はともかく)そんな気の利いたことは用意してくれないし、「じゃあ一神教に頼ってみる?」って考えてみてもこれがまたハードルが高い。聖書でアブラハムとか出されても、「いやいや、俺とは絶対に血繋がってないやろ」って思ってしまう。ユダヤ、キリスト、イスラムの場合は日本人の私には隔絶感が甚だしい。だから「あれはよその神様やから違うな」って思ってしまう。創造主を信じるのはいいけど、彼らが言うような人格神は違うんじゃねぇかなってどうしても思ってしまう。

とはいえ、ユダヤもキリストもイスラムも2000年も耐えてきたんだから(イスラムはもうちょっと若いけど)、人類が共通して持つある一定の真理のようなものを含んでいるんだろうと思うけれども、いかんせん一神教はファンタジー要素が強過ぎて現代の日本人には受け入れ難い。預言者たちが起こした数々の奇跡を信じられるか?うーん、私には無理だわ(笑)。別に一神教がいいとか悪いとかではなくて、科学に毒されてしまっているので、宗教を頭で理解しようとしてしまうんです。だから受け入れることがどうしてもできない。「だがしかし、信じる!」て言う状態になるまでのハードルが高すぎる。逆に、そのハードルを越えられた人は確信的に生きていくことができるんだろうね。もう恐れるものは何もない状態。キリスト教の場合は、多分イエスの復活を信じられるかどうかが信仰のネックになると思うんだけど、ゴルゴタでブッ刺された時に本当に蘇ったんかねぇ…?その後のヘタレ弟子たちの更生っぷりをみると、確かにあのとき奇跡に類するものが起きたんだろつけど、果たしてそれが人類を救済するものだったのかどうか。そして、「なんでその後2000年も何もねぇんだよ!」ってみんな思ってるハズ(笑)。

あと、一神教の弱点は、何故完璧な主が世界を創造したのに、世の中は悪が溢れているのかってことを説明できない点。2000年間学者たちが同じ問いに挑んできたから、ある程度は回答もあるけど、それは一般人にはよくわからない。いくら理論をこねくり回しても、直感的に何か違和感を感じてしまう。この点は、マニ教みたいな宗教の方がわかりやすい。やっぱり一神教現代日本人には受け入れるのが難しい。八百万の神の一つとして受け入れるくらいしか無理だなぁ。

その点、仏教は因果で説明してくれるので現代人でも比較的受け入れやすい。「仏教は科学です」なんて言う人もいるけど、「2500年前のインド人にとっての合理的な考え方」が仏教だから、現代の我々からみたら迷信的なこともたくさんあると思う。当時は当たり前だった輪廻の考え方は、現代人にはなかなか受け入れられない。そうは言っても、一神教よりはかなり合理的な考え方をするので、仏教は現代社会に割とマッチするんだと思う。日本の大乗仏教の場合は、また独自の進化を遂げてしまったからちょっと本来の仏教とは違うけど。

私の場合、仏教的な考え方でだいぶ救われたところがあります。一神教の場合は「信じる」ことがベースにあるので、信じられなかったらにっちもさっちもいかない。その点、仏教は「理解して実践する」ということがベースなので、表面的なことしか理解できない現代人でもとっつきやすい。私のような堕落した現代人には仏教の方がマッチしました。仏教のすごいところは、神秘的なところ、非科学的なところを取り払っても、それでも有効に機能するということなんじゃないかな。釈迦が死んだ後に付与された不思議な伝説は、さすがに今を生きる我々にとってはあまりに荒唐無稽すぎるけど、それを前提をしなくても仏教は色あせることがない。それらはあくまで釈迦を装飾するものであって、その教え自体ではないのだから。「悟りを開いたすごい人」くらいの感覚でもオッケーだと思う。釈迦自身が、「自分を拠りどころとしなさい。法を拠りどころとしなさい」と言ってるくらいだから、仏教において「釈迦を信じる」ということは必須ではない。2500年前に現れた天才が人生から苦悩を抜く素敵なメソッドを開発して、それを我々が仏教って呼んでると私は思ってる。今風に言えば「釈迦メソッド」みたいな感じですかね。元々は割と合理的だったものが、それを実践した熱烈な支持者たちが釈迦の実像を自分たちの好みに仕立てて上げて、今日語られるような神秘的なもんになってしまったのかな。まぁ、とにかく、一神教において信じることは必須条件だけど、仏教においては別に神秘的なものを信じなくても釈迦メソッドの効果は依然として失われないってのがいいな。

仏教の問題点

仏教こそ、宗教的なものが信じられない現代人の救いになると勝手に思い込んでいるんですが、それでもはやり問題が残る。「俺たちは何のために生きるんだよぉ!」って問いに仏教は答えてくれない。答えないっていうか、そういう問い自体に疑問を投げかけてくる。その問いのもう一歩向こう側を指してくるので、煩悩多い衆生には難しい。手っ取り早く答えが欲しいんです。この点、一神教的なものは、明確な答えをポンっと提示してくれる。「はい、これがあなたの生きる意味です」と。"これ" が分かれば、もう人生で迷うことはないので楽ちんですわね。ミッションってやつですかね。これがもしあるならば、その後の人生がものすごく楽になる。しかし、仏教はそんなに優しくないから、そんな簡単に答えは出してくれない。私のように頭の良くない人間には、一神教のようなものが助かる。だって思考停止できますもんね。これだというものを定めたら、あとは信じるだけでいい。なんて楽な生き方だ。問題は、信じ続けられるかどうかだけど。取り敢えず、自分には無理でした。もがきながら生きていくしかないね。

すぐに答えが欲しい

上に書いた通り、すぐに答えが欲しい、手っ取り早く知りたいとどうしても思ってしまう。これは今の若い世代にも当てはまる傾向だけど、私にもめちゃくちゃ当てはまる。人生に対しても簡単な答えが欲しくて、それが見つからず、そして虚無感に襲われて抑鬱になる。何でもかんでも、すぐに、簡単に、わかりやすく答えを求めようとするのはいかんですな。それが通用する分野ならいいけど、実存的な問いかけにこれを当てはめようとするとにっちもさっちもいかない。答えは自分の人生をかけて問い続けなければいけないものなのに、その我慢ができない。書籍でも、YouTubeでも、今は頭のいい人や要領の良い人がすぐに「これが答えです!」って簡単に言い切ってしまう。「答えが出ない」という宙ぶらりんな状況にどうしても我慢がならないのだ。

周りの成功者たちをみると、みんな自分の好きなことをみつけたり、自分の夢を見つけたり、自分の使命を見つけたりして、ブレずに人生を走っているように見えるから、自分も早く自分の人生の答えを見つけなければいけないたら思ってしまう。そして、クソ高いセミナーなんかに金を払ったりして、一時的に気分を高揚させて日常なら戻っていく。これを何度も繰り返し、人生の中で何も見つけていない自分に気がついていよいよ焦ってしまう。自分にはやりたいことも好きなこともないと。ちなみに、私はクソ高いセミナーには出たことないので、テキトーに書いてます。その代わり、自己啓発の本は一通り読み漁りました。その結果、「うん、自分にはクソの役にも立たないな」ということを理解しました。確かに、勉強になることも書いてありますが、自己啓発本に書いてあることって、結局自分には当てはまらない。「俺はお前じゃねぇから」ってケリがついてしまう。万人向けに書かれているものもについても、そもそも平均的な人間は存在しないので、万人のために書かれた書物は誰のためでもない。

 

長々とぐだぐだと書いてしまいましたので、一旦ここで切ります。もしここまでスクロールしてくださった方がいたらありがとうございます。ブログなんかの書きかをの本を読むと、「誰のために書くかを意識しろ」ってよく説かれていますが、それはそうなんだけど、それだけだと楽しくないな。だって、これは別に仕事じゃないんだから。「みんな、俺の話をきいてくれ」って人間の方が多いんじゃないかな。つまり、世間様の需要を満たした文章ではないものが多く発信される。私はそれでいいと思う。他のブログをみていても「みんなのため」に書かれた内容は個性がなくなってしまうから、あまり面白くない。書いている人が、何を体験して、何を感じて、何を思って、何を考えているかがわかる文章は面白いなぁと思う。「役に立つ」内容の文章を読んでも全然感じるところがないんです。そんなもんは、他の誰かがやってくれている。上記の私の文章は心の吐瀉物のようなものなので、見なかったことにしてそっとページを閉じてください(笑)。

 

 

 

 

みんな悩んでいるというウソ

世の中には細かいことに躓いてしまう人と、そうでない人がいます。最近では便利な言葉が発明されたので、前者のことをHSPとか繊細さんって読んだりしてますね。じゃあ、その反対はなんていうんだろう?鈍感さんっていうのかしか。ちょっと失礼な響きだな(笑)。普通に「普通の人」でいいのか。

繊細さんってのは通常の人が気にしないような細かいことに気が向いてしまって、悩んだり傷ついたりします。悩み事が他人には瑣末なこと過ぎて「考え過ぎ」なんて一蹴されることもしばしばなんじゃないでしょうか。挙句、「悩んでるのはみんないっしょよ!悩みのない人なんていないんだから!悩んでるのはあなただけじゃないわよ」なんて高圧的な意見を言われたりするんでしょうなぁ。まぁ、確かに世の中悩みのない人はいないんだろうけど、なんかこの言説には違和感を感じます。まるでみんなが「同じ程度で悩んで」いるかのような意見に聞こえます。果たして本当にそうなのか?今まで会ってきた人たちを振り返ってみても、明らかに生きやすい人生を歩んでいる人と、辛い人生を歩んでいる人がいた。しかも、その差を生み出すその原因が必ずしも外因的なものではなく、内因的なもの、その人のパーソナリティに起因するものが結構多いように見受けられる。誰もが同じように悩みを抱えているようには思えないんだよなぁ。「風邪気味」くらいの悩みで済んでいる人もいれば、常に「末期的」な悩みに苦しんでいる人もいる。後者の場合、現状をなんとか改善しようとして、その “治療” のためにより一層症状を悪化させてしまったりする。

人の心ってのは外観からは全くわからないから厄介なもんです。ちょっと油断すると「みんな同じ」と勘違いしてしまう。「心に傷を負ってる場合は顔面にめっちゃアザが出る」とかだったらわかりやすいけど、そういうことはない。

人間の体質が人それぞれ違うように、心の在りようも千差万別。どれだけ違うかってのは、体を例に挙げればわかりやすいとおもうんですよねぇ。私は、昔はものすごく暑がりで汗っかきでした。なので、真夏が全く耐えられるなかった。みんなが「暑いよね〜」なんて呑気に言ってるときには、こちとら汗だくでそんな言葉も出ないレベル。暑いねぇなんて言ってる輩はまだ暑さを楽しむ余裕があると思ってました。同じ気候の中に置かれても、その感じ方は全く異なります。個人差が絶望的にあり過ぎて、共通する「暑い」がどう頑張っても成立しない。しかし、この違いを細かく説明するボキャブラリーなんて存在しないので、我々共通の暑さがあるかのように表現されてしまう。”35℃” みたいな感じで客観的に数字で気温を表すこともできるけれども、それはあくまで物理的な状況を説明しているに過ぎない。個人個人についてまでは踏み込めない。

寒さについても然りですね。私は暑がりな反面、寒さには滅法強い方だったので、関東くらいの寒さであれば冬場でも平気で半袖で出かけたりしていました。なので、「寒がり」とか「冷え性」っていうのが全く理解できませんでした。両者の間には圧倒的なディスコミュニケーションが横たわっているので、お互いがお互いを理解することはできないと思います。みんな自分の感じ方を疑わないので、「みんな同じ」だとついつい思い込んでしまう。

身体に関することはまだ数値化できたりするので、みんなが「違う」ということが表すことができなくはないのですが、精神的なものになった瞬間に歯が立たなくなる。何故か「みんな同じ」幻想が立ち現れてしまう。だから、「みんな苦しんでるわよ」とか「みんな悩んでるよ」みたいな暴力的な言葉を平気な顔して他人に投げつけてくる。たぶん、こういうことを平気で言える人は大して悩んでないんだと思う(笑)。そして、残念なことに(?)世間の圧倒的多数は繊細さんではない方の人たちだ。繊細さんたちがいくら「苦しい」と訴えたところで、永遠にその言葉は届かない。残念ですねぇ。そもそも「そんな人がいる」というところまで理解が及ばないんですからね。

繊細さんたちは内省的な人が多いと思うんですけど、だいたいこういう人はネガティブかなぁ。でも、世間はしきりに「ポジティブシンキング」みたいな害毒にしかならないような考え方を撒き散らして、金科玉条のようにしている。繊細さんは「ネガティブはダメだ!ポジティブにならなきゃ!」と “頑張って” ポジティブになろうとして、より一層疲弊していってしまいますね。ポジティブになろうと思ってポジティブになれるやつは、そもそもがポジティブなんだよ(笑)。個人の性質は多少の変化することはありましょうけど、核となるところはほぼ変わらない、もしくは変えるのが困難だと思います。三つ子の魂ですな。魚が無理して鳥になろうとしてもなれない。たまに自分がトビウオだったと知らなかった人が飛べるようになって、「ほら、僕も変われたからあなたも変われる!」と啓発しようとしてきますけど、いやいや、なんか元が違うぞと。

人間を無理矢理繊細さんと鈍感さんに分けるとすると、この繊細さんってのは現代社会では明らかに不利になることが多いです。繊細さんが持っている特徴は一般的にはネガティブなものとして受けたら得られることが多いですから。例えば "100苦悩" があったとして、多分繊細さんは"1万苦悩"とか"1億苦悩"に増幅させてしまう。そういう才能なんだからしゃーない。ところが、鈍感さんはこれが100そのままか、本当に鈍感な人だと気づかないことすらある。客観的にみたら100苦悩は100苦悩なので、「みんなが同じように」それを受け取っていると考えられてしまう。酒を1升飲んでも酔わない人がいたり、一口飲んだだけでも倒れてしまう人がいるように、精神的なもののダメージも個人差がかなり激しい。なのに、何故かそのあたりがあまり考慮されない。不思議だなぁ。人によって「違う」のではなくて、「全く違う」のに、何故かこの理解がすっぽり抜けてしまう。脳にプラグでもブッ刺して他人の思考が見えれば、いかに僕らが違う世界を生きているかわかるのにねぇ。

いくら繊細さんが「辛い、苦しい」と言ったところで、社会の少数派だから、無視されるのがオチ。これは残念だけどしょうがないよね。諦めるしかない。

うちの息子が繊細さんな気質がかなり強いので、こんな駄文を書きました。いや、息子とこの駄文は関係ないか。ただ書きたかったから書いただけですね。息子の特徴を殺さないようにするにはどうすればいいかなあと日々気にかけております。彼のモチベーションを奪わないように、彼の創造性を奪わないようにと気を付けて、気を付けて… その結果なのか、ものすごくわがままなモンスターに育ってます(笑)。多分、育て方ミスったな。

 

食えないなら残せばいい --- 田舎の母、大量仕送り問題

親にとって、子供は何歳になっても子供なんだなぁって自分に子供ができてよくわかります。うちの息子は小学校に入ったんですけど、まだ赤ちゃんの時のイメージが自分の中に残っていて、ずっと子供扱いというか赤ちゃん扱いしてしまいます。この調子だと、息子が中学、高校に入ってもあまり変わらないだろうなぁ。親にとっては子供は子供ですね。

ということなのかどうなのかはわかりませんが、たまに田舎の親が食べ物を送ってくれることがあります。一応私も働いておるんで、別に困窮を見かねて食糧支援してくれているわけではないですよ。多少田んぼや畑もやっているので、たまに農作物が届いたりするんです。今回は農作物ではなかったんですが、大量の寿司と餅が届きました。

うちの地方では5月くらいに朴葉ずしとか朴葉餅ってのを作るのですが、多分あの地域だけかな。関東出身の妻は全く知らなかったので。まぁ、どんな料理かっていうと、字面のままで、朴の木の葉っぱに押し寿司みたいなのを包むんです。あと、朴葉餅は柏餅の朴の葉バージョンみたいな感じです。なんであの地方では朴の葉っぱを使うのかは謎ですが、これらの料理以外にも朴葉味噌なんてのも飛騨地方にはありますね。私は飛騨の人間ではありませんが。中部地方に朴の木がたくさん生えているんですかね。あんまみたことないような気がしますけれども(笑)。我が家で朴葉を使う理由は、単純に庭に大きな朴の木が生えてるからってだけかな。

昔からこの季節になると朴葉ずしを作っていて、それを姪っ子たちは気に入ってるみたいなんです。彼女たちは毎回競ってたくさん食べるもんだから、そりゃあ、作るばぁばとしては嬉しいですわなぁ。孫が上手い上手いと自分の作ったもんを食べてくれるんですもの。ここまではいいんです。問題は、これが我が家には当てはまらないってことです。うちの長男は好き嫌いがめちゃくちゃ激しくて、初見のものは絶対に口にしません。好き嫌いっていうか、食わず嫌いですかね。本人も「ケンちゃん、食べたことないものは嫌いなの!」と宣言してますし。なんで食べたことないのに嫌いってわかるんじゃ(笑)!!彼にとっては祖母が苦労して作った朴葉ずしも「嫌いなもの」カテゴリーに分類されちゃいます。まっっったく食べやしません。もちろん、うちの母親はそんなことは知る由もありませんから、たくさん朴葉ずしと朴葉餅を送ってくれたわけです。孫が喜んで食べるであろうと思って。大人2人と子供1人が食べるには過剰な量の寿司を送ってくれたうえに、うちの息子は一つも食べる気なし!ということは、この「課題」は大人2人でやっつけるしかない。私は「お残しはダメ!!」って考えはあんまり好きじゃないんだけど、それでも親が一生懸命作ってくれたもんを無碍に捨てるのは心苦しい。意気込んで食べることにしましたよ。食べてハッとしました。すしが乾いてパサパサしてる(笑)。いくら冷凍技術が発達したからと言って、やはり寿司のような生ものは中部地方から関東に運んではいかんのですな。可哀想に水気を失った米粒たちがそう訴えてかけています。朴葉ずしは地産地消するもんですな。500kmも輸送するなんて、寿司のサステイナビリティには全く寄与しないわけで。というか、そもそも寿司のサステイナビリティなんてせいぜい1日くらいですかね(笑)。コロケーション的にこの単語は寿司には使わないか。パサパサしていお世辞にも美味しいとは言えない状態になっていますが、それでもある程度は食べてやらないとなぁという謎の義務感に駆られ、夕食と朝食に朴葉ずしと朴葉餅をできるだけ食べました。餅の方は、朝には乾燥がいっそう進んで鏡餅の手前の手前くらいの硬さになっていました。基本的に夕飯しか食べないので、こんなにしっかり朝ごはんを食べたのは久しぶり。朴葉のおかげか、腹持ちがめちゃくちゃ良かったです(笑)。これだけ食べればあとは残してもいいでしょう。防腐剤も何も使ってないので、もうらこれ以上は衛生的に限界かな。朴葉にもある程度殺菌作用みたいなもんはあるのでしょうけど。今回得た教訓: やっぱり、「もったいない」とか「申し訳ない」みたいな感情で無理して食べない方がいいね。食えなきゃ残せばいいと思う。私の子供の頃は、やたらと残すのはダメだって言われていたけど、今もそういう教育してるのかなぁ。私もそういう感覚が強かったけど、日本を離れてからこの感覚は無くなりました。私が一時的にいたバーガーの国では1ポーションが日本と比べてようもないくらい大きくて、外食とかして、出されたものを「もったいない」と全部食べてしまうと大変なことになる。ヘルシーそうなサラダでも1皿2000kcalとかあって、一体なんの冗談かと目を疑いました。太る理由しか身の回りにないんです。日本のノリでやっていたら、確実に太ると思い、躊躇なく食べ物を残すようになりました。彼の国では日本と違って持ち帰り文化があるので、このおかげで料理を残しやすく、結果とした出される料理の増加につながっているのかも。この国に滞在している間に、「自分の身を守るために食べ物を躊躇なく残す、捨てる」というスキル(?)を身につけました。食べ物と道徳をやたらと結びつけたがる人からしたら私の行動は悪の所業でしかないんだけれども、やっぱり自分の体に無理させるくらいなら、食べ物は捨てた方がいい。もっとも、最初から食べる分だけ用意するのがベストですけど。

「お残しはダメ」っていう変な考えと共にどうも腑に落ちないのが、「好き嫌いはダメ」っていう考え方。これはなんか納得がいかないなぁ。息子が小学校に入った時も「お子さんの好き嫌いをできるだけ無くしてください」みたいなことを要求されました。いやいや、そんなバカなこと言わないでよ。なんで学校から好みまで強制(そして矯正)されなくちゃいかんのじゃい?いくら日本が全体主義的な国であろうと、個人の好き嫌いの自由くらいあろうて。学校の言わんとしていることはわかります。集団生活をするので、みんなが好き勝手にあれが食えないこれが食えないとやっていたら、学校給食が成立しませんからね。でも、その場合も、「子供の好き嫌いをなくす」ってのは方向違いだと思う。「嫌いなものでも食べろ」なら話はわかる。

私が子供だった頃もそうだったし、今もきっとそうなんでしょう。学校教育なんてろくな洗脳をしないです。殊に「好き嫌いはダメ」なんて最悪中の最悪だと思う。好き嫌いは、我の根幹に関わるところだから、むしろちゃんとそれを子供がわかるように大人が教えてあげないといけないと思う。好き嫌いがダメだということを間に受けて真面目に育った人間がどうなるか。嫌いなことがなくなると同時に好きなことまで消失してしまって、生きることの意味を感じられなくなってしまう。心が動かなくなってしまうと、それをもう一度動かすのには多大な労力と時間が必要です。こうならないためにも、自分の好き嫌いはちゃんと子供のころから大事にした方がいい。

と、つらつらと書きましたが、うちの息子に関しては、「文句言わず食え!」っていいたいな(笑)。

 

 

何故マスクが外せない?

不思議だなぁ

「マスクをする」だとか「しない」だとかは個人の自由なのでどうでもいい話なんですが、それでも今の状況は不思議だなぁって思います。私も長年日本人をやってますけど、今回ほど理解できないのは初めてかもしれない。社会不適合者だからもともと世間様とは乖離があったのかもわからんけれども、それでも今日本で起きている現象が理解できない。なんでみんなマスクしてるんだろう?いつまでマスクし続けるんだろう…?

3月13日くらいにマスク着用は屋内外問わず「個人の判断に委ねる」ってことになったと思います。この時、街のみんなはほぼ誰1人としてマスクを外していなかったので愕然としました。一体何が起きているんだろうと。そもそも、この日以前にも屋外ならマスクしなくていいってことになっていたと思うんですが、みんな外だろうとなんだろうと頑なにマスクをしている。朝のゴミ出しのちょっとの間でもマスクをしている。コロナってそんなに感染力強いのかしら?

接客業をやってるところは、変な客に絡まれるのを避けるために、クレーム対策としてマスクをつけるってのは解らんでもないんですが、客まで全員マスクをつけてるとなると、どうも変な気がする。

公園で走ってる人たちも平気でマスクをしていて、もう何の苦行をしているのか私には理解できない。感染リスクよりももっと差し迫ったリスクを自ら作り出しているような気がしてならないんだけど。酸欠しないのかなぁ…

いつ外すのよ?

「感染するかもしれないから」というのはわかるけど、じゃあ一体いつになったらマスクが外せるようになるんだろう。今外せなかったら、もう死ぬまでマスク生活するしかないなぁ。もうコロナウィルスが地球上から消滅することはないんだから、感染リスクは常にある。でも、みんなの様子を見てると「感染者がゼロになるその日まで絶対にマスクは外さん!」って感じがするなぁ。ちょっと潔癖的すぎる気がするんだよなあ。リスクがあるかないかで言ったら、そりゃ "ある" んだから、「じゃあ、気をつけてくださいね (= マスクしてね)」ってことになっちゃうよねぇ。そもそも、コロナに限らず誰かと接する以上は感染リスクはあるのに、一体どこまでリスクを排除すれば気が済むのやら。

ゴールデンウィーク明けにコロナが5類に格下げされた後もみんな外でも内でもしっかりマスク着用していましたけど、この前気温が上がってからちょっとずつマスクをしない人が増えてきたような気がします。といっても、私の周りを見る限り、数パーセントくらいかな。

この前田舎に帰省したときも、みんな律儀にマスクをしていてちょっとカルチャーショックでした。過疎地なので、人より猪の方が多いようなところですよ。私のツッコミとしてはですね「いやいや、接触する人おらんやん!!」って。もうね、我々は一体何と闘っているんでしょう…?

私の感覚が世間様とズレてしまっているようなんですが、今のこの状況が不思議で仕方がないのと同時にものすごく怖いです。政府が「もうマスクしなくていいよ」って言ってるのに、誰も強制していないのにみんなほぼ100%マスクしてるんですよ。一体日本で何が起きているの??怖すぎる。「個人の判断で」マスク着用ってなっているんだから、何割かマスク無しの人がいてもおかしくないはずのに、みんなしめし合わせたようにマスクをきちっとしている。政府が全体主義を煽っているんじゃなくて、日本の国民自体に全体主義的な気質がありまくりなのちょっと怖いです。もはや問題は感染云々ではないと思う。

私はコロナが流行した時は日本にいなかったので、どんな合意形成が日本の中で行われたのかわかりません。「マスク警察」とかがいたってのは聞いていたので、国内でもマスク着用に関しては、一悶着ニ悶着くらいはあったのかと思います。この「マスクの着用」ってのは、身体の一部を制限することなので、それに対して拒否感をしめすのは至って自然なことだと思う。いくら日本人がマスク慣れしていると言っても、最初のうちはマスクを「させられている」という状況に拒否感を覚えた人も多かったんじゃないだろうか(実際のところはわからないけど)。それが今やどうなんだろう?もうみんな自分の体の一部を制限させられているということに鈍感になっていたら、結構危ないと思う。身体の自由を奪われているということに対してもっと敏感になった方がいいと私は思うんだけど。

権力者にとっては、今回のコロナはいい勉強になっただろうなぁ。頼んでないのに、国民が「自己の判断」で自らの身体を縛り上げてくれるんだから、政府がちょっとやそっとめちゃくちゃなことをしても多分誰も文句を言わない。もっともそうな理由をつけてしまえば、みんな簡単に自由を差し出してしまう。今回は日本以外でもかなり自由が制限されたけど、もしかしたらコロナ以上にヤバい前例を作ってしまったんじゃないのかなぁ。「緊急」とか「非常事態」ってなればなんでもできちゃう。まぁ、今回みたいな事態はどう頑張っても「正解」はないんでしょうけれども、でも、個人個人が問題点に気をつけないといかんですな。

私が不安に思うのは今の小学生たち。不安っていうか、可哀そうだなぁ。ただでさえ小学でどうでもいい洗脳教育を受けているのに、そこに「マスク」っていうもんが付け加わる。こんな身体の自由を奪うものは大人が強制させてはいけないと思うんだけど、今回の特殊な状況では「マスクをすることは "良い" こと」になってしまった。今の子供たちにとっては、"異常事態" が "常態" となってしまっている。彼らが大人になったときに悪影響がでないといいけど。ただでさえ従順すぎる子たちがより一層従順になってしまってはいかんですなぁ。

卵が先か

感染が怖いなら、「満員電車に乗らなきゃいいのに」って思う人は多いはず。でも、こんなこと言ったら「マリーアントワネットか!電車に乗らないと生きていけないんだよ!!」って怒られそう。ここまで感染が落ち着いてきているのにそんなに怖がるなら、そもそもめっちゃリスキーな満員電車とか人が集まるようなところに行かなきゃいいって思うんですけど、「いやいや、そういうところに行くからマスクしてんだよ」っていう反論もあって、なんだかよくわからない議論になってしまう。マスクがあるからこそ、満員電車にも乗れるのか?いやいや、もうなにがリスクなんやら話がわからないな。

マスク好きが多い?

3月13日になってもマスクをみんなきっちりするもんだから、妻と「なぜなんだろう?」って話てみました。妻曰く「みんな花粉症だからだよ」とのことだったのですが、もう今の季節はスギ花粉も飛んでいないので、この説はたぶん違う。じゃぁ、一体なんなんだろう?
・マスクがないと不安
・マスクが既に習慣化してしまった
・いまさら他人に素顔がみせられない
・本当は外したいけど、みんながしているから
いろんな理由が考えれらますけど、案外みんなマスク好きなのかも。日本はただでさえ人が密になる状況が多いので、マスクが物理的精神的なバリアになっているのかもわからんですね。マスクで顔の半分を隠すことができ、匿名性を格段にあげることができる。マスクは現代社会における隠れ蓑的なアイテムなのかも。男性の場合はどうなのかわかならいけど、女性にとってはもはやマストアイテムになってるのかもしれないですなぁ。目元だけばっちり化粧すればいいだけだしね。

私はマスクをすると肌がボロボロになってしまうので、個人的には早くこんなマスク生活はなくなってほしいんですけど。マスクから得られるメリットよりもデメリットの方がはるかに大きい。

夏でもマスクするのかしら

いったいいつになったらマスクなし生活が戻ってくるのやら気になります。北風と太陽じゃないけど、マスクできないくらい暑くならないとマスクを外さないのかな。でも、去年の猛暑でもみんな律義にマスクしていたよなぁ… マスク着用はあくまで「個人の自由」ってことになっていますけど、99%の人がマスクをしているような状態に "自由" があるようにはとても思えない。幕末明治以来、日本人は自由民権っていう着慣れないものを無理して身に着けてやってきたはずなのに、コロナでまた大きく退行してしまったような気がします。なんでもかんでも西洋化がいいってもんじゃないけど、自由ってものは現代の根幹の根幹部分なので、もう少し敏感になった方がいいと思うんだけどなぁ。

 

 

 

 

カブトムシの人口蛹室を作ってみた

カブトムシ愛が止まらない

今年年齢の二桁目が更新されてしまう自分にとっては、"もう" と言うべきが "やっと" と言うべきかわからないんだけど、息子が小学校にあがりました。小学生になったから何かグレードアップされたかっていうと、そういうわけでもなく、特に賢くなった様子はみられませんなぁ(笑)。残念、我が息子。親としては元気でやってくれりゃそれで充分ですけどね。強いてこちらの要望を言うならば、もうちょっと妻のいうことをきいて欲しいなぁ。我儘っぷりは頼んでないのに日々アップデートが入るみたい。

子供の興味関心って、コロコロと変わるもんです。自分の息子をみていてもホントそれは実感します。目先の現実しか見えていないから、短期的、それはもう超短期的に生きているって感じですね。今風の言い方をすると、「今を生きて」いるってやつですかな。最初は、ディズニーのカーズから車にハマり、それからスパイダーマン、パウパトロールポケモン、恐竜、電車、忍者、ドラえもん仮面ライダー・・・ それはそれはもういろんなものにハマっていました。周りがみえなくなるくらい熱中できるのっていいなぁ。でも、あんまり長続きしないのよねぇ。忍者にハマっていた時は、寒い中わざわざ浅草までいって「忍者体験」までさせたのに、その後すぐに興味が薄れていってしまった。息子はすぐに忘れちゃうからいいだろうけど、こっちとしてはちょっと切ない。部屋の片隅には今や忘れられた忍者刀やら折り紙の手裏剣やら巻物やらが追いやられております。片付けると、そういう時に限って「あれどこにやったの?」と訊いてくるので、迂闊に捨てられない。捨てたら激オコですよ。こっちとしては、"不要なもの" を "わざわざ片づけてやった" のに、"僕の宝物を捨てた悪い奴" 扱いするなんて、あんな理不尽なもんはない(笑)。

ちょっと前までは、仮面ライダーギーツとドラえもんにドはまりだった息子ですが、最近はもっぱらカブトムシにご執心でございます。第何期のカブトムシブームかしら。去年の夏にカブトムシの成虫を飼ったときに、息子はカブトムシファンになったわけですが、冬場はさすがにカブトムシの生体はおらんのでカブトムシブームもなりを潜めておりました。気候が暖かくなってきてからまた息子の中でカブトムシブーム再熱です。虫のバイオリズムと同調しているのかな(笑)。

カブトムシの幼虫とサナギ

今、息子はアトラスオオカブトっていうのを飼っております。近所のホームセンターで割とぞんざいな感じで売られていたので買ってみたものです。ツノが3本も生えていて結構カッコいいフォルムをしているんですが、1,500円くらいで売られていました。私が子供のころ (30年も前の話か…) は、日本のカブトムシが売っているくらいなもんで、普通のホームセンターにこんな外国産のカブトムシは売ってなかったよなぁ。時代も変わったもんです。ひょっとしたら、私が子供のころも都会の方では珍しい外国産も売られていたかもしれないけど。

最近は、YouTube にカブトムシの飼育に関する動画がたくさんアップされておりまして、それにもろインスパイアされた息子は、カブトムシの成虫だけでは飽き足らず、カブトムシの幼虫も飼いたいと言い出しました。「小さいころに虫とか動物と触れ合う経験は大事だから」と息子に幼虫を買い与えてしまったのは、バカ親の所業かどうかはわかりませんが、現在我が家には4匹のカブトムシの幼虫がおります。なんで4匹も飼っているのかというと、「たぶん半分以上は羽化前に死ぬだろうなぁ」っていう予測に基づいております。が、彼ら結構うるさいので、4匹は多すぎたかなとちょっと後悔しております。カブトムシの幼虫なんて飼ったことがないので、あんなにギシギシ音を立てるとは知らなかった。うちの妻が「なんか小動物が床下をかじってる!」って怯えてたくらいです。

昨日、息子とホームセンターに行ったときにペットコーナーに立ち寄ってみました。息子のお目当てはもちろんカブトムシです。そこのホームセンターにはティティウスシロカブトっていう、私が小学校のときには絶対にいなかったであろうタイプの外国産カブトムシの幼虫がいることを知っているからです。しかし、この日息子が目撃したのはこいつ↓

え!?もうサナギになっとるやん(笑)。私は虫関係のことは全然詳しくないのですが、ホームセンターってサナギも売ってるもんなの??透明のプラスチック容器の中に入っていたのですが、素人の私でも蛹室がないってことはわかる。「土から掘り起こしたら、既にサナギになってたけど、とりあえず売っとけ」みたいな感じで投げ売りされたんでしょうか。今までカブトムシの幼虫と成虫しか生でみたことがなかったので、そのサナギがホームセンターで売られているっていう状況に結構な驚きを覚えました。もちろん、息子は大興奮。サナギを買って帰りました。

カブトムシの人口蛹室

カブトムシの生態についてはよくわからんのですが、たぶんこのサナギ君をそのまま放っておいたら羽化しないで死ぬってのは感覚的にわかります。そんなサナギを土の上にポンっとおいただけのホームセンターもどうなのよってちょっと疑問に思いました。ネットで検索すると、人口の蛹室をこさえてやれば大丈夫みたいです。私が調べたやつでは、園芸用のスポンジに円筒にくりぬいてカブトムシ君のお部屋を作っていました。どんな感じかというと、こんな感じ↓

園芸用のスポンジを用意。私は使ったことはないんですけど、水に浸して花の茎をぶっさすさすやつですね(たぶん)。

キッチンペーパーの芯で思いっきりさす!!

 

スポンジをくり抜くとこんな感じ。椎名桔平片岡愛之助の写真の方が気になる。

ケースにセット。水で適度に湿らせました。プラスチックのケースで蛹室を作っている人もいたので、そんなに湿っていなくても大丈夫なのかも。詳しいことはよく知らんですが。

そして、サナギ君を新居に移し替えます。

新しいお部屋に引っ越ししたサナギ君。やっと縦方向に眠れて彼も一安心でしょう。

カブトムシのサナギって、羽の部分以外は本当にカブトムシの形しているんですね。いやー、生でみるとちょっと感動。そして、やっぱちょっと気持ち悪い(笑)。サナギって、私は「硬いもの」だと思い込んでいたんですけど、カブトムシのサナギって、めっちゃクネクネ動くんですね。これにはちょっとびっくりですよ。「お前、もっと安静にしとかんと羽化できんぜ?」ってアドバイスしたくなっちゃう。

果たしてこのサナギ君はちゃんと羽化できるのでしょうか。このサナギに魅了されてしまった息子が、"大切に" 肌身離さず持ち歩いているのが唯一の問題かな。「そんなに動かしたらサナギが死んじゃうから静置しておきなさい」といっても親の言葉はどこまでも息子には届かないのでした。サナギ君が無事に成長するといいですなぁ。

ちゃんと人を嫌う

おそらく、ちゃんと真っ当に生きている方には全く不要な内容でございます。メンタル弱めな方にはもしかしたら何か役立つことがあるかもしれまさん。まぁ、クズ人間の1サンプルとしてみてください。「ちゃんとネガティブな感情と向き合わないといけない」っていうお話です。

ポジティブの弊害

宗教的な本でも、自己啓発本でもしきりに「ネガティブはダメだ」と喧伝されております。これは別に今に始まった話ではないですけど。ポジティブシンキングなんていうものも流行りましたしね。この考え方に間違いはないんだろうなぁとは思います。確かに、ネガティブなことばかり考えていると、世界がそのように変容してしまい、ネガティブなことばかり意識に上がってくるようになりますし、何事もポジティブに受けとらえるようにすれば、自分の認識が(つまり世界が)変わります。なので、ポジティブであるべきだと言われたら、「そうですね」としか言いようがない。ただ問題なのは、それができるかどうかということですね。ネガティブパワーは超絶強力なので、いくらポジティブであろうとしても簡単に跳ね除けてしまいます。僕の場合、思考の99.9%くらいはネガティブな感じです。内省的な性格の人はみんなこんな感じじゃないですかね?意図的にポジティブになろうとしても、頭がご親切にネガティブな思考を垂れ流しにしてくれますからね。頼んでないのにさ!

無理矢理ポジティブな感じにしようとすると、一時的には効果は得られますが、あくまで一時的なものなので長期的にはただ心を疲弊させるだけということになりかねませんね。魚が空を飛ぼうとするようなものなので、無理なものは無理。ポジティブな思考法は、向いている人と、向いていない人がいますね。「ポジティブでなければならない」という意識が強まってしまうと、それがストレスになりうるので気をつけないといかんですなぁ。

認知が歪んでた

僕は、成長のどこかのタイミングで思考法がめちゃくちゃネガティブになってしまい、そのまま抑鬱まっしぐらでした。それはそれは長い抑鬱トンネルで、その一番最悪な時期を脱したきっかけは自分の認知の歪みに気付いた時でした。不思議なもので、抑鬱の最中にいる時は視野狭窄のような状態になってしまい、自分の状況がわからなくなってしまいます。そこから一歩離れた時にようやっと自分のことが少しだけ理解できました。「自分のものの見方が間違っていた」と気付いたこと自体は良かったのですが、その後、「自分の思考法は間違っているから直さなければならない」と思い込んでしまったのが違う沼への第一歩でした。

「思考法を変える」ってのは、もしそれが可能であるならば有効なことであると思いますけど、もし不可能なら、そのこと自体が自分のメンタルを悪化させてしまいます。

僕の場合、すべてのことにネガティブな価値観を貼り付けていたのが抑鬱の原因だったのですが、今度は自分の思考を客観視して、そのあとでネガティブだポジティブだと価値判断をしてしまっておりました。で、「ネガティブだからダメだ」たら思ったりしておりました。抑鬱思考から抜け出したつもりが、また同じような思考法の沼にハマってしまったのでございました。心がネガティブなことを垂れ流したり、葛藤したりするのには、何かしら理由があってそうなっているのだから、これを無理矢理抑え込んだり捻じ曲げたりするのはやらない方がよさそうです。後で問題が悪化しますからね。

ネガティブを捻じ曲げる!

実際に僕がやったことは、ネガティブな思考が浮かんだ時に、それを一旦出してから、それに対する反論をするというものでした。自分対自分のディベートみたいな。これにより、自分の認知がいかに歪んでいるのか自分で自分に理解させようとしていました。あと、自分とは異なる人格を設定して、その人の視点から日記を書いてみるとか。こうすることによって、自分の固定化された考え方を修正したかったんですよ。あー、そうだ、アファメーション的なのも試してみましたねぇ。

こういう努力(といっていいのかしら?)は、全く効果がないわけではないのですが、長期的には何か違和感を強めるだけでした。「効果がないわけではない」ってのがいやらしいですね。間違っちゃないと思うんですよ、たぶん。「もしそれがちゃんとできるならね」っていう前提で。

僕の場合の問題点は、すべて理屈で考えて、自分の悪い点を理性でなんとか解決しようとしていたところだと思います。自分の感情がどう動いているのかはあまり気にしないで、「こうすべきだ」「こうしなければいけない」と浅知恵だけで何とか自分のメンタルを捻じ曲げようとしたのが間違っておりやした。自分の心は、理屈や理性といった浅いところでは簡単に変えられるもんじゃないなって思います。無意識と呼ばれるような心の深いところは、意識の表面を少し繕っただけではなかなかびくともしないですな。

ちゃんとネガティブをしよう

子供の頃に「好き嫌いはダメ」って言われませんでした?今から思うと、こんなにひどい洗脳の仕方はないと思います。自分の息子たちには絶対にこのひどい洗脳はさせちゃいかんと心に誓ったくらいです。この重要さに最近まで気付けませんでした。「好き」とか「嫌い」って、感情の結構根源的なものなので、好き嫌いがなくなってしまうと、生きる気力が削がれてしまいます(自分のことを言ってます)。

しかも困ったとこに(?)、好き嫌いは2つでセットなので、嫌いというネガティブがないと、好きというポジティブな感情も無くなってしまいます。僕なんかは、小さい頃は割と真面目な子だったので、それこそ言われるままに「好き嫌いのない子」に育ちましたけど、そうなると、「嫌い」がない代わりに「好き」がなくなってしまうんですよ。「嫌いがないからこそ」って言った方が正確かもしれませんね。「好きな食べ物は?」とか、「何が食べたい?」って言われたときに、はたと困ってしまいます。自分には好きな食べ物がないから、別に食べたいものなんてないんだと。小さい頃は、苦手な食べ物ってあったはずなんです。でも、「好き嫌いはダメ」と洗脳されていたから、自分の「嫌い」を「嫌い」だと認めないようにしてしまいました。ホントに、誰だよ、こんなこと言い出したやつは!って言いたいですね。嫌いなものは嫌いでいいし、食えなきゃ残せばいいのに。と小さい頃の自分に言いたいなぁ。

食べ物の好き嫌いだけで終わりばいいのですが、これが万事に及ぶと厄介です。僕の場合は、人間の好き嫌いまではっきりしなくなってしまいました。だから、誰かに怒るとか、誰かと喧嘩するってことがないまま大人になってしまいました。社会人になってから、みんなめちゃくちゃすぐにキレるからびっくりしたものです。最後に僕が誰かに対して怒りをぶちまけたのっていつだろう?全く記憶がないですね。そもそも、対面で誰かに怒ったことってないかも。別に、慈悲深いとか寛容なわけじゃなくて、心が動かなくなってしまったから怒りの感情すら出にくくなってしまっただけなんです。こうなるといよいよ末期ですよ。健康なみなさんにはこうはなって欲しくないですね。

ネガティブな感情が出た時に、それを抑え込んで、それが習慣になってしまうと、こんなひどいことになるのですねぇ。嫌う時はちゃんと嫌う、怒る時はちゃんと怒る、ムカつく時はちゃんとムカつく。ネガティブな時はちゃんとネガティブをやる。そうしないと、感情自体が死んでしまいます。

感情的になろう

僕は、すぐ感情的になるのってよくないんじゃないかとずっと思っていたんですけど、そうじゃなかったみたいです。凡夫は自分の感情に流されて生きていると思うのですが、僕みたいに凡夫よりもさらに下のステージの人間はそもそも感情がわかないんですね。こういう末人的な輩が、自己啓発本とかで言われているようなことをやったとて、あんまり意味ないんですね。まずは、煩悩がちゃんと出てくるレベルに、凡夫レベルに上がらないと。

自分の息子には普段から「好きとか楽しいっていう気持ちを一番大切にするんだよ。こういう感情から先になくなっていくからね。ゾンビみたいになっちゃうよ」って言ってます。悲しいかな自分のことだけど。「好き」とか「楽しい」という感情が死んで、さらにネガティブな感情まで否定してしまうと、廃人の出来上がりです。こういう人間は(自分のことですけど)、まずはちゃんとネガティブな感情を出していく訓練をしていかないとダメみたい。ネガティブなところから感情を動かして、心のストレッチをしないとね。

ということで、最近は少しでも「こいつ嫌だな」って思ったら、心の中でありとあらゆる罵詈雑言を吐き出すようにしています。そのおかげで、少しずつ人に対する好感度の濃淡が出てきたような気がします。今までは「俺らはみんなただの糞袋だ」って感じで世を儚んでいましたから、そこから比べると大した進歩です。

ちゃんと人を嫌っていこう

嫌いがなければ好きもない。不幸がなければ幸福もない。お互いがお互いを定義しあっているので、どちらかがなくると両方とも消えてしまうのですね。できればポジティブな方だけ味わいたいもんですが、世の中そううまくはできていませんね。この理屈でいうと、天国ってのはそもそも成立しないのかな。

現代人ってのは、とかく頭で考えて理屈理屈で生きようとしてしまいますけど、実際の我々はほとんどが本能的なところに縛られて生きているわけですから、自分の体や感情ががどう反応しているのかちゃんと受け止めてやらんといかんなぁとつくづく感じております。自分を苦しめているのは、自我ってやつですけど、こいつは人間が理性を獲得したときにひょっこり出てきやがったやつなので、やっぱり人間は知恵がついたせいで不幸になってしまったのか。自我の問題を超えるには、やっぱり理屈とか理性をなんとかせんとあかんのかな。

いかんいかん、またグダグダと考えてしまいました。こういうのがたぶんダメですね。まずは、ちゃんと感情が動くように、人のことをしっかり嫌っていこうと思います。誰かを怒れるようになったら大進歩だなぁ。世の中の怒らない人たち、一緒に他人を心の中で罵るところから始めましょう(笑)!