茹で蛙の盆踊り

茹で蛙の盆踊り

アラフォーサラリーマンが、まぬけな子育て話などをお届けします

ちゃんと人を嫌う

おそらく、ちゃんと真っ当に生きている方には全く不要な内容でございます。メンタル弱めな方にはもしかしたら何か役立つことがあるかもしれまさん。まぁ、クズ人間の1サンプルとしてみてください。「ちゃんとネガティブな感情と向き合わないといけない」っていうお話です。

ポジティブの弊害

宗教的な本でも、自己啓発本でもしきりに「ネガティブはダメだ」と喧伝されております。これは別に今に始まった話ではないですけど。ポジティブシンキングなんていうものも流行りましたしね。この考え方に間違いはないんだろうなぁとは思います。確かに、ネガティブなことばかり考えていると、世界がそのように変容してしまい、ネガティブなことばかり意識に上がってくるようになりますし、何事もポジティブに受けとらえるようにすれば、自分の認識が(つまり世界が)変わります。なので、ポジティブであるべきだと言われたら、「そうですね」としか言いようがない。ただ問題なのは、それができるかどうかということですね。ネガティブパワーは超絶強力なので、いくらポジティブであろうとしても簡単に跳ね除けてしまいます。僕の場合、思考の99.9%くらいはネガティブな感じです。内省的な性格の人はみんなこんな感じじゃないですかね?意図的にポジティブになろうとしても、頭がご親切にネガティブな思考を垂れ流しにしてくれますからね。頼んでないのにさ!

無理矢理ポジティブな感じにしようとすると、一時的には効果は得られますが、あくまで一時的なものなので長期的にはただ心を疲弊させるだけということになりかねませんね。魚が空を飛ぼうとするようなものなので、無理なものは無理。ポジティブな思考法は、向いている人と、向いていない人がいますね。「ポジティブでなければならない」という意識が強まってしまうと、それがストレスになりうるので気をつけないといかんですなぁ。

認知が歪んでた

僕は、成長のどこかのタイミングで思考法がめちゃくちゃネガティブになってしまい、そのまま抑鬱まっしぐらでした。それはそれは長い抑鬱トンネルで、その一番最悪な時期を脱したきっかけは自分の認知の歪みに気付いた時でした。不思議なもので、抑鬱の最中にいる時は視野狭窄のような状態になってしまい、自分の状況がわからなくなってしまいます。そこから一歩離れた時にようやっと自分のことが少しだけ理解できました。「自分のものの見方が間違っていた」と気付いたこと自体は良かったのですが、その後、「自分の思考法は間違っているから直さなければならない」と思い込んでしまったのが違う沼への第一歩でした。

「思考法を変える」ってのは、もしそれが可能であるならば有効なことであると思いますけど、もし不可能なら、そのこと自体が自分のメンタルを悪化させてしまいます。

僕の場合、すべてのことにネガティブな価値観を貼り付けていたのが抑鬱の原因だったのですが、今度は自分の思考を客観視して、そのあとでネガティブだポジティブだと価値判断をしてしまっておりました。で、「ネガティブだからダメだ」たら思ったりしておりました。抑鬱思考から抜け出したつもりが、また同じような思考法の沼にハマってしまったのでございました。心がネガティブなことを垂れ流したり、葛藤したりするのには、何かしら理由があってそうなっているのだから、これを無理矢理抑え込んだり捻じ曲げたりするのはやらない方がよさそうです。後で問題が悪化しますからね。

ネガティブを捻じ曲げる!

実際に僕がやったことは、ネガティブな思考が浮かんだ時に、それを一旦出してから、それに対する反論をするというものでした。自分対自分のディベートみたいな。これにより、自分の認知がいかに歪んでいるのか自分で自分に理解させようとしていました。あと、自分とは異なる人格を設定して、その人の視点から日記を書いてみるとか。こうすることによって、自分の固定化された考え方を修正したかったんですよ。あー、そうだ、アファメーション的なのも試してみましたねぇ。

こういう努力(といっていいのかしら?)は、全く効果がないわけではないのですが、長期的には何か違和感を強めるだけでした。「効果がないわけではない」ってのがいやらしいですね。間違っちゃないと思うんですよ、たぶん。「もしそれがちゃんとできるならね」っていう前提で。

僕の場合の問題点は、すべて理屈で考えて、自分の悪い点を理性でなんとか解決しようとしていたところだと思います。自分の感情がどう動いているのかはあまり気にしないで、「こうすべきだ」「こうしなければいけない」と浅知恵だけで何とか自分のメンタルを捻じ曲げようとしたのが間違っておりやした。自分の心は、理屈や理性といった浅いところでは簡単に変えられるもんじゃないなって思います。無意識と呼ばれるような心の深いところは、意識の表面を少し繕っただけではなかなかびくともしないですな。

ちゃんとネガティブをしよう

子供の頃に「好き嫌いはダメ」って言われませんでした?今から思うと、こんなにひどい洗脳の仕方はないと思います。自分の息子たちには絶対にこのひどい洗脳はさせちゃいかんと心に誓ったくらいです。この重要さに最近まで気付けませんでした。「好き」とか「嫌い」って、感情の結構根源的なものなので、好き嫌いがなくなってしまうと、生きる気力が削がれてしまいます(自分のことを言ってます)。

しかも困ったとこに(?)、好き嫌いは2つでセットなので、嫌いというネガティブがないと、好きというポジティブな感情も無くなってしまいます。僕なんかは、小さい頃は割と真面目な子だったので、それこそ言われるままに「好き嫌いのない子」に育ちましたけど、そうなると、「嫌い」がない代わりに「好き」がなくなってしまうんですよ。「嫌いがないからこそ」って言った方が正確かもしれませんね。「好きな食べ物は?」とか、「何が食べたい?」って言われたときに、はたと困ってしまいます。自分には好きな食べ物がないから、別に食べたいものなんてないんだと。小さい頃は、苦手な食べ物ってあったはずなんです。でも、「好き嫌いはダメ」と洗脳されていたから、自分の「嫌い」を「嫌い」だと認めないようにしてしまいました。ホントに、誰だよ、こんなこと言い出したやつは!って言いたいですね。嫌いなものは嫌いでいいし、食えなきゃ残せばいいのに。と小さい頃の自分に言いたいなぁ。

食べ物の好き嫌いだけで終わりばいいのですが、これが万事に及ぶと厄介です。僕の場合は、人間の好き嫌いまではっきりしなくなってしまいました。だから、誰かに怒るとか、誰かと喧嘩するってことがないまま大人になってしまいました。社会人になってから、みんなめちゃくちゃすぐにキレるからびっくりしたものです。最後に僕が誰かに対して怒りをぶちまけたのっていつだろう?全く記憶がないですね。そもそも、対面で誰かに怒ったことってないかも。別に、慈悲深いとか寛容なわけじゃなくて、心が動かなくなってしまったから怒りの感情すら出にくくなってしまっただけなんです。こうなるといよいよ末期ですよ。健康なみなさんにはこうはなって欲しくないですね。

ネガティブな感情が出た時に、それを抑え込んで、それが習慣になってしまうと、こんなひどいことになるのですねぇ。嫌う時はちゃんと嫌う、怒る時はちゃんと怒る、ムカつく時はちゃんとムカつく。ネガティブな時はちゃんとネガティブをやる。そうしないと、感情自体が死んでしまいます。

感情的になろう

僕は、すぐ感情的になるのってよくないんじゃないかとずっと思っていたんですけど、そうじゃなかったみたいです。凡夫は自分の感情に流されて生きていると思うのですが、僕みたいに凡夫よりもさらに下のステージの人間はそもそも感情がわかないんですね。こういう末人的な輩が、自己啓発本とかで言われているようなことをやったとて、あんまり意味ないんですね。まずは、煩悩がちゃんと出てくるレベルに、凡夫レベルに上がらないと。

自分の息子には普段から「好きとか楽しいっていう気持ちを一番大切にするんだよ。こういう感情から先になくなっていくからね。ゾンビみたいになっちゃうよ」って言ってます。悲しいかな自分のことだけど。「好き」とか「楽しい」という感情が死んで、さらにネガティブな感情まで否定してしまうと、廃人の出来上がりです。こういう人間は(自分のことですけど)、まずはちゃんとネガティブな感情を出していく訓練をしていかないとダメみたい。ネガティブなところから感情を動かして、心のストレッチをしないとね。

ということで、最近は少しでも「こいつ嫌だな」って思ったら、心の中でありとあらゆる罵詈雑言を吐き出すようにしています。そのおかげで、少しずつ人に対する好感度の濃淡が出てきたような気がします。今までは「俺らはみんなただの糞袋だ」って感じで世を儚んでいましたから、そこから比べると大した進歩です。

ちゃんと人を嫌っていこう

嫌いがなければ好きもない。不幸がなければ幸福もない。お互いがお互いを定義しあっているので、どちらかがなくると両方とも消えてしまうのですね。できればポジティブな方だけ味わいたいもんですが、世の中そううまくはできていませんね。この理屈でいうと、天国ってのはそもそも成立しないのかな。

現代人ってのは、とかく頭で考えて理屈理屈で生きようとしてしまいますけど、実際の我々はほとんどが本能的なところに縛られて生きているわけですから、自分の体や感情ががどう反応しているのかちゃんと受け止めてやらんといかんなぁとつくづく感じております。自分を苦しめているのは、自我ってやつですけど、こいつは人間が理性を獲得したときにひょっこり出てきやがったやつなので、やっぱり人間は知恵がついたせいで不幸になってしまったのか。自我の問題を超えるには、やっぱり理屈とか理性をなんとかせんとあかんのかな。

いかんいかん、またグダグダと考えてしまいました。こういうのがたぶんダメですね。まずは、ちゃんと感情が動くように、人のことをしっかり嫌っていこうと思います。誰かを怒れるようになったら大進歩だなぁ。世の中の怒らない人たち、一緒に他人を心の中で罵るところから始めましょう(笑)!