茹で蛙の盆踊り

茹で蛙の盆踊り

アラフォーサラリーマンが、まぬけな子育て話などをお届けします

無駄が欲しい

余白が少なすぎよ

いやー、今日も暑いです。もう9月も下旬に入ったというのに軽く30℃を超えるだなんて、一体何が起きているんでしょう。もうこの地球では生きていけない… 暑いにも程があるよ。

こんなに暑くても経済活動は続けていかなければいけないわけで、毎日毎日汗を流しながら電車に揺られ揺られ外の暑そうな景色を眺めます。周りの雑多な建物を見ては思います。「こんなにギチギチに建てなくてもいいのに」って。私は "超" が付くほどの田舎出身なので尚更そう思うのかもしれんですが、都会っていうのはホントに寸分無駄なく土地を有効利用しますね。

この前も超狭小区画に無理くり家が2軒も建ち始めてびっくりしました。「余白ゼロやん…」って思いましたね。そりゃ法律的にはちゃんとスペースを取っているんでしょうけど、いざ暮らすとなったら周りとくっつき過ぎて息苦しそうだなぁ。

土地が狭い上に人口が首都圏に集中してしまうから、どうしてもこういう自体は避けようがないわけですが、それにしても狭すぎる。人が人らしく生活するような余白が全く考慮されていない。

土地を有用に、そして効率よく活用しようとすると、今の日本のような醜い街が出現してしまうわけですけど、これがどうも耐え難い。もっと余白がないといけない。余白こそ必要な無駄だと思う。

都会っていうのは何でもかんでも人工物ばかり。つまり、必要なものしか存在しない。全てのものが何か目的があって存在している。となると、意味のないものは徹底的に駆逐されてしまって、"価値のある" そして "有用な" ものしか残らない。だから息苦しさを感じてしまうんでしょうね。

一方田舎はというと、価値があるのかないのかわからないものばかり周りに溢れている。雑草や木が、意味を持ってそこにあるってことはあんまりないですね。計画的に植えられた街路樹の場合は別ですけど。都会と比べると圧倒的に不要なものや無用なものが多いと思います。なんかわからんけど「そこにある」っていうとこが無条件で認められている。

無駄がない

人生においても同じことが言えるんじゃないですかね。いかに無用なものが大切か。私はずっと実存的な悩みに苦しめられてきたんですけど(軽く20年以上)、よくよく考えてみると自分の苦悩の根源は無用を認めないで人生に価値というものを求め過ぎた点にありました。小さい頃から「夢を持て」とか「将来の目標は?」とか「ちゃんと目的を持って行動しろ」とか「有意義な時間の使い方をしろ」とか耳にタコができるくらい言われ続けると、効率重視になり、結果が全てということになってしまう。いかにコスパ良くやるかということばかりに気が取られてしまう。最近ではタイパなんていう呆れた言葉まででてきましたが。

こういう考え方は、決して悪いわけではないと思います。ビジネスを行う上では絶対に必要な考え方だと思います。しかしながら、あまりに強調してしまうと人間から大切なものを剥ぎ取ってしまう。効率や結果だけに重点を置きすぎると、物事を味わうことができなくなり、最終的にはなんのためにやっているのか、何のために自分が生きているのかわからなくなってしまう。

コスパ重視の生き方で満足していられる人は、多分物事の表面のところでくっついて生きていける人だと思う。それがこの先の人生でも続けられるのであれば問題ないのかもしれないけど、ちょっとでもその井戸の底の方を覗いてしまうと多分絶望しかない。ごく少数の幸せな人は何も感じないで日常を過ごすことができるかもしれないけど、圧倒的多数の人は気付いていないふりをして日常をやり過ごし、残りの私みたいな病的な人間はただただ絶望に苛まれる(笑)。

映画を倍速で観る

効率的に生きようとするのは、現代の価値観とマッチしていて一見よさそうな感じもするんですが、突き進んでいくと何があるんでしょう?最近では見るべきコンテンツが増えすぎて「映画を倍速で観る」なんていう行為も横行していますけど、自分もあんまり他人のこと言えないかも。YouTubeの再生速度をあげることがあります。倍速で観るならまだしも、もっとひどいと「飛ばし見」だったりしますね。

こういう行為の根底にあるのは、「コスパ良くコンテンツを消費したい」であったり、「余分な時間はかけずに結果だけ知りたい」といった考え方だと思います。無駄な横道を省いて、とにかく結果だけを得たい、答えだけさっさと知りたいという考え方ですね。コスパ、タイパに突き詰めてしまうと、一切の無駄が許せなくなってしまう。

私はもう若い世代には含まれないんですけど、気持ちはすごくよくわかる。というか、今の若い世代に20年先駆けてこのコスパ病に罹っておりました。すぐに答えがでないものを良しとせず、なんでもかんでも単純に論理的に答えが欲しいと思ってしまう。合理的でないものや、必要からはみでたものを認めようとしない。

よく、中学生や高校生が「こんなもの勉強して将来なんの役に立つの?」なんて生意気なことをいいます。この程度で済んでいればいいのですが、これこそコスパ意識の萌芽的なものなので、突き詰めてしまうとえらいことになる。そもそも学校教育なんて、そのほとんどが将来的に実際に役に立つものはないし、この問いとどんどん進めていくと「そもそもお前は世の中の役に立つのか?に生きる価値なんてあるのか?」というエグイところまで行ってしまう。何が必要か不必要かなんて、我々には簡単にはわからないのに、平気でそういう考え方をしようとしてしまう。

神様的な、人間を超越した存在が信じられる時代はまだよかったのですが、今はそういう非科学的なものは基本的に否定されるので、我々に普遍的な価値を与えてくれるものがない。となると、いよいよ何に価値があるのかということがわからなくなる。現代でも一神教とかと信じられる人はかなり生きるのが楽でしょう。「これが神が与えてくれたミッションです」と簡単に答えが得られる。しかし、実際に今我々が直面している社会では「これが答え」というものが用意されなくなってしまった。より社会が複雑になって、わけのわからない状態になっているのに、簡単に答えを求めてしまう。

コスパばっかり求めても、その根底を担保してくれるものが現代ではなくなってしまったから、コスパ人間はそのうち何のために生きるのかわからなくなってしまう。コスパコスパいうなら、とっととこの世から退場するのが一番コスパいいですもんね。コスパを求める場合、結果に重点を置いてその過程を極力省こうとする。余白を認めない。でも、人生においてはその無駄なことこそが悦びをもたらしている。最終的な人生の結果は「死」なんだから、それと向き合うにはコスパ云々ではどうやっても太刀打ちができない。

私はこれで随分と苦しめられました。「どうせ死ぬのに病」です(笑)。コスパ人間の行きつく先はこれです。何をやるにも意識が死の瞬間にまで飛んでしまい、何を頑張ってもどうせ死んでしまうから意味がないと20年も苦しみまくっていました。いやー、それこそ本当に無駄なことに悩んでいたなぁ。今の若い子たちも、コスパの表面で踏みとどまっている分にはまだいいけど、そこから一歩二歩と踏み込んでしまうと人生の泥沼にはまってしまいます。

無駄なんてないかもしれないし、全部無駄かもしれない

自分の息子にはぜひこんな人間にはなってほしくないですね。物事を一面的にしか判断しないで「あれば無駄だ」、「これは意味がない」という感じで人生を切り捨てていくとどうしようもない沼にはまってしまう。

息子に伝えたいのは、無駄こそが重要なんじゃないかなっていうことです。考えてみるまでもなく、一日で経験することのほとんどがたいていそんなに意味のないこと、価値のないことです。「これをやって何の意味があるの」みたいなことばっかりです。でも、なんでそんなことが言い切れるのか?確かに、短絡的に考えれば意味のないことかもしれないけど、人生っていうのはそんなに単純化できない。今は無駄だと思っていたことが10年後に自分の人生を変えることもある。逆に、今はめちゃくちゃ有用なことも将来的にまったく有用ではなくなることもある。すべての事象は複雑に絡み合っているので、今この時点で答えを出したり、価値を見切るのは時期尚早過ぎる。

本当にいろいろな物事がわかるようになるのは、死ぬその瞬間かもしれないし、死んでもわからないかもしれない。

余白や無駄なもの、曖昧なもの、すぐには理解できないもの、こういうものをとりあえず飲み込んでみる姿勢が人生を生きていく上では大切かな。私はそういう考えができずに抑鬱人間になってしまったので。よくわらないものはとりあえず棚上げするってのもいいですね。今は解決できないけど、10年後20年後には解決できるってこともあるし。

住宅地の余白から随分とそれてしまいましたが、なんにしても余分なものってのは大切だと思います。道路だって、タイヤが通らないところがあるから使えるのであって、タイヤの幅しかない道路があったら死ぬほど使いにくいっていうか、使えない。今の社会はこの必要な余白をどんどん削り取っていく方向に進んでいるからみんな生きにくいんじゃないかなぁ。無駄バンザイ。無目的、無目標でいいんじゃないですかね。すべてを合理的、効率的にすると人間は生きられない。

きっと、私がいつも参加する会議も無用の用みたいな何かがあるハズ… いや、ないな。。